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海難防止のため気象台が時計製作

饒村曜気象予報士
気象台の作ったクロノメーター2号機

 天智天皇10年4月25日(671年6月10日:グレゴリオ歴の場合)、漏刻台と呼ばれた水時計が完成し、初めて「漏刻」を作って知らせたということが「日本書記」にあります。

 この故事にちなみ、1920年(大正9年)に生活改善同盟会が制定したのが時の記念日です。

 私たちの生活に必要不可欠な時計ですが、海難防止のために正確な時計が必要不可欠であったこと、海難防止のために気象台で精度の高い時計を製作していたことは全く忘れられています。

正確な緯度の決定

 経度は、緯度とともに、地球上の位置を示す座標です。「経」に縦糸の意味が、「緯」に横糸の意味がありますので、縦糸と横糸で織物ができるように、経度と緯度の2つで地球上の位置を決め、海図(地図)ができています。

 そして、その海図をもとに、16世紀から大航海時代が始まっています。

 当時の船舶でも、緯度については、日付に応じた太陽の高さが緯度で変わることを利用することなどで、比較的容易に正確に求めることができました。しかし、経度については、正確に求めることができませんでした。

 地球の自転周期は24時間であることから、船の時計と出発地の時計を合わせ、太陽が真南に来る時刻(南中時刻)を測れば経度を求められることは早くから分かっていました。つまり、地球一周(360度)が24時間に相当するので、1時間ずれていれば、360度の24分の1、つまり経度で15度離れているという理屈です。

 しかし、問題は航海中の船が、どうやって出発地の正確な時刻を知るかと言うことでした。当時の時計は振り子時計かゼンマイ時計ですが、揺れる船の中では振り子時計は最初から使えません。そしてゼンマイ時計も熱帯に行くと内部部品が膨張して狂い、寒冷地では内部に差す油が凍り、多湿地帯ではカビや錆が発生することなどによりすぐ止まっていました。しかも、当時の時計の精度は、求められる精度には遠く及びませんでした。

 このため、最短コースではなく、陸沿いに目的地と同じ緯度まで移動し、その後、同じ緯度を保ちながら航海するという方法がとられていました(図)。

図 緯度だけが正確にわかる場合の航路決定の方法
図 緯度だけが正確にわかる場合の航路決定の方法

イギリスを世界の覇者にした経度法によってできたクロノメーター

 18世紀のはじめ、スペイン王位の継承問題をめぐってヨーロッパ諸国間でスペイン継承戦争が起きましたが、この戦争のさなか、イギリス艦隊がイギリス南西部のシリー諸島で、濃霧のため4隻が座礁、1000人を超す死者を出しています。

 このため、イギリスでは、航海時の船舶の正確な位置の測定が重要という認識から、スペイン継承戦争が終わった1714年に経度法を制定し、船舶が経度を正確に測定できる方法に多額の懸賞金をかけています。

 この法律に応え、賞金を獲得したのが、ジョン・ハリソンで、1735年に「クロノメーター」という精度の高い時計を作っています。名前は、ギリシャ神話の「時の神クロノス(Chronos)」に由来します。また、クロノメーターは、経度を図ることから、経線儀とも呼ばれることがあります。

 こうして、イギリスがクロノメーターという航海技術を大幅に進歩させる秘密兵器を手にし、世界の海を制して大英帝国を築いています。

 ただ、クロノメーター号自体は、ジョン・ハリソン等の天才技術者の個人製作から、スイスを中心としたヨーロッパ企業による分業方式に変わってきます。

第一次世界大戦後とクロノメーター

 1914年(大正3年)に第一次世界大戦が始まり、ヨーロッパが主戦場となるとヨーロッパ各国でクロノメーターの生産ができなくなり、1918年(大正7年)に戦争が終わった後になっても、主要な生産国だったドイツ等は敗戦の混乱によって生産ができなくなっています。

 また、アメリカは戦火をまぬがれたといっても大量供給の工業力は持っていませんでした。このため、クロノメーター不足が深刻となり、普通の時計で代用するなどしたため、海難が増加しています。

 このため、海難防止のために気象情報を提供していた中央気象台(現在の気象庁)では、自らがクロノメーターを作ろうと考えています。1920年(大正 9年)8月26日の気象台官制(勅令第294号)によって、神戸に海洋気象台(現在の神戸地方気象台)が新設されるのですが、その業務の中に、経線儀の製作と時計の検定を行うことを明記しています。

 しかし、時計の検定は行われても、経緯儀の製作は困難をきわめています(写真1)。

写真1 海洋気象台のクロノメーター検定室
写真1 海洋気象台のクロノメーター検定室

 

 中央気象台長兼海洋気象台長になった岡田武松は、製作にあたる技師は手の柔らかな16~17歳の少年時代から養成しなければならないと考え、甥の岡田群司を膝下に引きとって指導しています。岡田群司は、東北帝国大学理学部を卒業すると中央気象台に入り、1929年(昭和4年)からスイスのジユネーブの時計学校に2年半留学しています。

 その後、時計工業保護のために外国人を入れないフランス国境に近いル・ロックル市で特別に約1年間の入市を許され、ナルダン会社のベテラン技師について研究をつづけています。スイスでの経線儀の製作は、数十の会社でつくる部分品を買い集めて1会社が組立てる分業方式ですが、岡田群司は、針やヒゲゼンマイなど全部の部品を作る技術を身につけています。

国産クロノメーター第1号

 岡田群司は留学を終え、中央気象台で三井物産の三井報恩会や、海軍を後援する会(海防議会)から研究費の支援を受け、クロノメーターとして十分な精度を持った試作1号機を完成させたのは1939年(昭和14年)のことです。材料は全部国産で、宝石とゼンマイを国内で外注した他は、テンプからヒゲに至るまで全て自製しました。

 試作1号機は1940年(昭和15年)の中央気象台の火災で焼失したため、現存してるの試作2号機です(タイトル画像、写真2)。文字盤には、「KISHO SOKKIKOJO C.M. JAPAN」という文字が記入されています。

写真2 クロノメーター2号機の拡大図
写真2 クロノメーター2号機の拡大図

 岡田群司は、クロノメータの量産化を目指し、時計技術者を養成しています。しかし、まもなく始まった太平洋戦争により、量産化はできませんでした。

 ただ、地震観測のために正確な時計を必要としていた全国の測候所には、時計技術者が配置され、これが気象測器の維持・管理に大きく役立っています。

 戦後、船舶の位置は電波を用いる方法に変わり、時計の出番はなくなりますが、岡田群司が残した高度な技術を持った時計技術者たちは、戦後日本を、全国屈指の時計大国に押し上げています。

タイトル画像、図、写真1、写真2の出典:饒村曜(2010)、日本製クロノメーターに対する神戸海洋気象台の多大な貢献、海と気象、海洋気象学会

気象予報士

1951年新潟県生まれ。新潟大学理学部卒業後に気象庁に入り、予報官などを経て、1995年阪神大震災のときは神戸海洋気象台予報課長。その後、福井・和歌山・静岡・東京航空地方気象台長など、防災対策先進県で勤務しました。自然災害に対しては、ちょっとした知恵があれば軽減できるのではないかと感じ、台風進路予報の予報円表示など防災情報の発表やその改善のかたわら、わかりやすい著作などを積み重ねてきました。2024年9月新刊『防災気象情報等で使われる100の用語』(近代消防社)という本を出版しました。

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