たらいの穴をふさぐには 同情を超えて、地域づくりとしての貧困対策を考える
上からだけでは、気づけないことがある
たらいに水が溜まらない。どこかから漏れているらしい。さて、どうするか。
下から見ればいい。
たらいの上から目を凝らしても、漏れている箇所は見つからない。
たらいの下から見れば、どこから漏れているか、一発でわかる。
貧困対策と地域づくりの関係は、ここに示されている。
ふつうにしていれば大丈夫 じゃあふつうじゃなくなったら?
私たちの多くは、なんとか暮らしている。
なんとか暮らせていると、なかなか世の中の穴には気づかない。
「ふつうにしていればなんとかなるはずなのに、どうしてなんともならない人間が生まれるのか」と不思議に感じてしまう。「何も問題はないはずなのに」と。
しかし、いったん歯車が狂い始めると、「何も問題はない」どころか、「問題だらけ」であることに気づいたりする。
それは、自分がトラブルに見舞われた場合にかぎらない。
家族の誰かが病気する、高齢の親がケガをする、認知症になる、子どもが保育園に入れない、障害や難病を抱えて生まれた、大学受験や就職に失敗したことがきっかけでひきこもってしまった、等々が起こると、「ふつうにしていればなんとかなるはず」とついこの前まで感じていた自分が、突然遠い存在に感じられる。
トップエグゼクティブから困窮者まで
一度、年収数千万はあるだろう外資系投資会社の幹部から、しみじみと言われたことがある。
「50代までバリバリやってきて、それなりの自負を持っていた。自分は『できる』と。ところが数年前に、母親の認知症と、妻の病気と、子どもの受験が重なった。そのとき、いかに自分の自負がもろいものだったかを思い知らされた。それまでやってきたことなんて『練習』にすぎなかったんじゃないかとさえ感じた」と。
また、生活に困窮した人からは、繰り返しこんなことを聞かされてきた。
「去年の今ごろは、テレビで『派遣村』とか見ながら、大変な人がいるもんだな~と思ってた。まさか自分が厄介になるなんて、想像もしなかった」と。
たらいを共有してしまっている以上は
たらいの穴から落ちるまでは、まさか自分が落ちるなどと思わず、穴にさえも気づかない。穴から落ちて初めて、穴があったことに気づく。
一生、落ちない人もいる。その人は幸せだ。他方、「まさか」と言うことになる人もたくさんいる。
だから、穴に落ちた人は貴重だ。穴のありかを教えてくれるから。
別にえらいわけではない。うまく説明してくれるとも限らない。しかしその存在が、私たちに穴の在りかを教えてくれる。
そして、穴がわかり、穴が塞がれば、今後そこから落ちる人がいなくなる。それは、単なる「弱者救済」を超えて、たらいを共有するすべての人の利益となる。
だからそれは、自分たちの負担において誰かを助ける、という話ではない。そうではなく、自分たち自身が助かるために必要なことだ。水も漏らさぬ地域づくり、社会づくりができれば、私たちはどれだけ安心して暮らせることだろう。きっと、不安からいくら貯金しても足りないように感じる焦りからも解放されて、消費も伸びることだろう。
バリアフリーとウォシュレット
具体的に考えてみよう。
バリアフリーのまちづくりがあたりまえになっているが、私たちは多少の段差には気づかない。それはたらいの上から見ているからだ。わずか5cmでも「ここさえなんとかなれば、だいぶ違う」とわかるのは、車イスを利用している人だろう。
限られた予算の中でバリアフリー化の優先順位をつけたければ、車イス利用の人に聞くのがいい。そして一か所でも段差がなくなれば(穴が塞がれば)、街はそれだけ歩きやすくなる。
その恩恵は、いずれ高齢者になる私たち自身も享受するだろう。
住みやすい地域づくりとは、そのようにして進められる。
温水洗浄便座(TOTOの「ウォシュレット」など)は、もともと局部疾患などをもつ患者のための医療用機器だったと言う。ふつうの便座をふつうに利用できない、その必要(ニーズ)が生み出した発明だ。
自分で拭ける人は、ウォシュレット登場前、何の不便も感じていなかったはずだ。少なくとも私はそうだった。そういう人たちだけの世界だったら、ウォシュレットは発明されていない。
不便を感じる人、その穴をふさげないかと考える人がいて、そこから発展してウォシュレットが生まれ、現在、私たちの暮らしに欠かせないものとなっている。
穴が塞がれば、私が落ちない
「必要は発明の母である」という言葉がある。
しかし私たちは多くの場合、自分たちの将来に向けた必要性までは自覚できない。
想像力で補えばいいとも言われるが、なかなかできることではない。
だから、教えてもらう。「そこから何が見えますか」「下から見ると、たらいのどこに穴が開いていますか」と。
「ないものねだりより、あるものさがし」
日本の地域づくりは、長らく公共事業と企業誘致に頼ってきた。
それらはいわば「地域づくりの東西両横綱」で、今でも地域活性化と聞けば、この両者を思い浮かべる人が多いと思う。
しかし、深刻な財政難で公共事業費は削減され、グローバル化の進展の中、国内の工場も減少した。両横綱に、もうかつての力はない。
それに代わって台頭してきているのが、一次産業の六次産業化、観光、再生可能エネルギーなどによる地域活性化だ。いまだ平幕で横綱を脅かすには至っていないが、若手の注目株だ。
両者は、地域にどのような視線を向けるかという点で、対照的だ。
前者(公共事業と企業誘致)は、外から来るもので、地元に「ない」ことが強調される。後者の三つは、地元に「ある」ものを再認識・再発見・再活用しようという問題意識に基づく。「地元学」を提唱する結城登美雄(ゆうき・とみお)氏は、それを「ないものねだりより、あるものさがし」と表現してきた。
「活用」と「活躍」
「人」に対しても、どちらの視点を向けるかで、見え方は違ってくる。
前者の視点からは、人の問題は「地元にいない人を、いかに外から連れてくるか」という話になる。地域経営のための優秀なコンサルタント・学者・中央省庁の官僚から、人口減対策としての若者・子連れの夫婦・学生などなどだ。
後者の視点からは「今、地元で十分に活躍できていない人たちに、いかに活躍してもらうか」という問題になる。
バリバリ働いて稼ぐことだけが「活躍」ではない。もっと多様な「活用」の仕方があっていい。
「活用」の発想が貧しく単線的だと、「活躍」できない人が大量に生まれる。
「活用」の発想が多様で複線的だと、「活躍」できる人も増える。
「活用」したい人たちと「活躍」したい人たちが、Win-Winの関係になることが望ましい。
地域づくりとしての貧困対策という視点は、「活用」の幅を広げることを通じて「活躍」の幅を広げていこうという発想に基づいている。
子どもの貧困対策も同じ
子どもの貧困対策も同じだ。
この問題は「かわいそうだから、なんとかしてあげる」というだけの話ではない。
子どもが課題を抱えているということは、その家族・地域・社会に何かしら課題がある。
子どもたちは、たとえ言葉にすることがなくても、それを体現している。彼ら彼女らには、たらいの穴が見えている。
その課題に対処することが、強い地域をつくる。
「『こんにちは』で終わらない地域づくり」としてのこども食堂
たとえば、滋賀県近江八幡市で「むさっこ食堂」を運営する石田幸代さんは、目指すのは「『こんにちは』で終わらない地域づくり」だと言う。
地域の縁が薄くなってきたと言われている。
ご近所の人とスーパーなどで出会えば「こんにちは」くらいは言うが、その後の言葉が続かない。
地域のいろんな人たちが、こども食堂で顔を合わせ、一緒に作業していれば「あれ、どうしますか?」とか「あの子、どうなったかね?」とか、「その次」の言葉が出てくる。
地域の縁を強くする、その役割を「むさっこ食堂」は担いたいと言う。
大人たちに「言い訳」を用意してあげる
地域の縁が薄くなって、家庭をフォローする地域の機能が弱くなった。
その結果、単に貧乏だけではない孤立した子どもたちが増えた(貧困と貧乏は違う。貧困とは貧乏+孤立だ)。
子どもたちは「地域の機能が弱まっている」という「たらいの穴」を体現している。
その子どもたちに、地域をつむいでもらう。
大人たちは「子どもたちのために」と言うが、逆から見れば、子どもたちに一役買ってもらうことで「『こんにちは』で終わらない地域づくり」を実現しようとしている。
それが、地域の網の目を細かくし、漏れる子どもを減らすことにつながるから。
「子どもたちのために」という大義名分がなければ、大人たちは動かないだろう(大人たちが動くためには「言い訳」が必要だったりする)。
このとき、子どもたちは「活用」されつつ「活躍」している。
誰のため、何のために? みんなのため、地域づくりのために。
同情を超えて
では、子どもたちは地域づくりのダシにされているのか。違う。
子どもたちも、その場から利益を得る(食事だけでなく、さまざまな大人との関わり(体験)など)。
「子どもたちのために」と大人が犠牲になる「貧困対策」ではなく、大人が子どもたちをダシにする「地域づくり」でもない。
だから「地域づくりとしての貧困対策」と言う。
同情を超えて「地域づくり」の観点からもこの課題を考えるというのは、そういうことではないかと思う。