藤原道長の「この世をば・・・」ではじまる有名な和歌は、ライバルの日記に書かれていた
今年の大河ドラマ「光る君へ」は、藤原道長による摂関政治が全盛期を迎えた時代が舞台である。
道長は自らが栄耀栄華を謳歌している気持ちを「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の かけたることも なしと思へば」という和歌に託した。この和歌はライバルの日記に書かれていたというので、確認することにしよう。
長徳元年(995)1月、関白の藤原道隆が病で倒れ、その3ヵ月後に亡くなった。しかも後継者の道兼は、関白に就任してわずか1週間で病没する不幸に見舞われた。
その後、後継の座をめぐって、伊周(道隆の子)と道長(兼家の子)が激しく争った。その際、道長を強力に推したのが、姉の東三条院詮子である。道長は後継者争いに勝ち、内覧の宣旨を賜ったのである。
内覧とは、天皇に奏上すべき文書を内見して政務を処理すること、またはその担当者のことを意味する。そもそも内覧は摂政や関白が資格を保持していたが、別に摂政や関白でなくとも、公家が宣旨を受けたら担当することができた。かつて、左大臣の藤原時平、右大臣の菅原道真も、内覧の宣旨を受けていた。
内覧となった道長は右大臣、左大臣を歴任し、一条天皇を支えた。長保元年(999)、道長は一条天皇の後宮に娘の彰子を入れ、翌年には皇后とした。
長和5年(1016)、さらに道長は三条天皇に対して、彰子の産んだ後一条天皇に天皇位を譲るよう申し入れて実現すると、同時に道長は外祖父として摂政に就任したのである。
翌年、道長は子の頼通に摂政の座を譲ったが、決して政治への意欲を失わなかった。道長は娘の姸子(けんし)を三条天皇の後宮に入れ、またもう1人の娘の威子(いし)も後一条天皇の後宮に入れた。
こうして、威子が皇后、姸子が皇太后、彰子が太皇太后となり、三后を道長の娘が独占するという黄金時代を迎えたのである。まさしく、道長にとって「我が世の春」だった。
寛仁3年(1018)3月の威子が立后された祝いの宴席で、道長は先の「この世をば・・・」の和歌を詠んだ。ところで、この和歌は藤原実資の日記『小右記』に記録されたものである。実資は道長から返歌を求められたが辞退し、代わりに道長の和歌を列席した公家らで詠じることを提案したという。
実資は、道長と同じ藤原氏の流れを汲む。斉敏の子として誕生したが、のちに祖父の実頼の養子に迎えられ、その莫大な財産を相続した。有職故実に関する造詣が深く、儀式書『小野宮年中行事』を著わしたことで知られる。道長と面と向かって対立しなかったが、決して臆することはなかった。
たとえば、刀伊の入寇の際、実頼は功のあった藤原隆家に恩賞を与えることを主張した。実は、公家たちはさまざまな理由を挙げ、隆家に恩賞を与えることに、反対する姿勢を見せていたという。
道長へは公正な態度で批判したこともあり、「賢人右府」と称されたほどである。ともあれ、実資が道長の和歌を記録しなければ、「この世をば・・・」の和歌は後世に伝わらなかったのだ。
主要参考文献
朧谷寿『藤原道長』(ミネルヴァ書房、2007年)
大津透『日本の歴史06 道長と宮廷社会』(講談社学術文庫、2009年)
山中裕『藤原道長』(法蔵館文庫、2023年)