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【深掘り「鎌倉殿の13人」】実は昵懇だった。後鳥羽上皇と源実朝の深く良好な関係

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
後鳥羽上皇を演じる尾上松也さん。(写真:つのだよしお/アフロ)

 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、源実朝が政治への強い意欲を示した。その際、実朝が頼りにしたのが後鳥羽上皇であるが、その関係について詳しく掘り下げてみよう。

■若き後鳥羽上皇

 建久9年(1198)1月、土御門天皇が即位すると、後鳥羽上皇の院政がはじまった。しかし、当時は源通親が実権を掌握しており、非常に心もとない状況が続いていた。通親は九条兼実の失脚により、台頭したのである。

 正治2年(1200)後鳥羽は守成親王を皇太弟に立てると、徐々に政治への強い意欲を示すようになった。まず、失脚した兼実に厚意を示し、弟の慈円を天台座主に復帰させると、子の良経を左大臣に任官させた。こうして少しずつ態勢を整えたのである。

 後鳥羽が政治に関与したことは、通親にとって歓迎できないことだった。自らの権勢が削がれるからである。建仁2年(1202)に通親が死去すると、後鳥羽は自らの理想を実現すべく、政治に取り組んだのである。

■実朝との関係

 この頃、鎌倉幕府は頼朝死後の混乱もあって、後鳥羽にとっては願ったり叶ったりという状況だった。しかも、3代将軍の実朝の名は、後鳥羽が与えたこともあり、強い関係を保持していたといえる。

 実朝の妻は、後鳥羽の信任が厚く、院近臣の筆頭である坊門信清の娘だった。2人の婚姻を強く推し進めたのは、ほかならない後鳥羽だった。後鳥羽の母が信清の姉だったので、実朝の妻としてふさわしい女性だった。

 こうして後鳥羽は、坊門家を通して、実朝と強い関係を結んだのである。同時に実朝は、後鳥羽の院近臣のような立場となった。後鳥羽は実朝を武家の棟梁たる将軍と認めつつも、自らが主導して公武の円満な関係を築き上げたのである。

■まとめ

 そもそも公武というのは対立してとらえるのではなく、協調関係にあったとみるべきだろう。実朝は将軍としては若かったが、その点は熟知していたはずである。

 実朝が和歌に親しんだことも、単なる趣味を超えて、朝廷との融和を望んだろうことは想像に難くない。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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