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米同時多発テロから18年。ニューヨークに住む人々にとって911はどんな日だったのか(後編)

安部かすみニューヨーク在住ジャーナリスト、編集者
テロ後にすべてが崩壊された世界貿易センタービル(写真:ロイター/アフロ)

前編からのつづき)

ニューヨーカー、911それぞれの記憶 2

小林 渚さん・欧米向けセールスレップ

小中高一貫の学校に通うなど恵まれた環境ながら、レールの敷かれた人生を歩むことへの不安が10代のころから私には常にあった。自分を見つめ1人で何ができるのかを考えたいという思いから渡米を決め、この地に移住したのは911の前年だった。

それから1年が過ぎた2001年9月11日。学生だった私はいつものように朝8時過ぎ、最寄駅のユニオンスクエア駅(現場から地下鉄で15分ほどの場所)を降りて南に数ブロック歩いていた。そこから先の南端には、大空に向かってそびえ立つツインタワー(世界貿易センター)がよく見える。私はそれをいつも眺めながら通学していた。

その日は雲1つなく真っ青でとても綺麗な空だったのをよく覚えている。校舎に入ると、守衛が朝のニュースを観ていた。いつもと同じ朝だ。

しばらくすると、飛行機の大きな音が聞こえてきた。クラスメイトが「やけに低く飛んでいないか?」と呟いた。少しして、遅刻してきたクラスメイトが、教室に入ってくるなりこう言った。「ツインタワーに飛行機が突っ込んだ!地下鉄も止まり大騒ぎになっている」

休み時間になって皆で外に出ると、いつも観ていたあの綺麗なツインタワーは、それぞれに飛行機が突っ込んで煙を上げていた。事情が掴めないまま不安だけが募った。携帯電話を持っていなかったため、公衆電話から日本の家族に電話をしようとしたが、混線状態で全く繋がらず。諦めてまた外に出ると、まもなく南塔が崩壊し始めた。

音もなく、白い煙を上げながら

静かに崩れていく高層ビル ──── 。

「オーマイガー!」。周囲の人々が、頭を抱えながら泣き叫び始めた。私にはその光景があまりにも非日常的過ぎて、ハリウッド映画のワンシーンにしか見えなかった。ゾ〜っとする感覚が背中から首に走った。

そのまま呆然と立ち尽くしていると、しばらくしてダウンタウンの方から白い埃をかぶった人たちが歩いて来た。それを見て初めて「現実」なのだと認識した。

公共交通機関が止まり、クラスメイトと徒歩で帰宅することになった。当時マンハッタン北部のハーレム地区に住んでいた。学校からは徒歩で2時間ほどかかる。歩き疲れた私たちは途中、セントラルパークの芝生の上で休憩することに。ここならテロリストも狙わないだろうと思った。

「アメリカがこんなことになってしまって、私は卒業を待たずに故郷に帰る」と言い出す留学仲間もいた。彼女の意思は固く私はとても寂しくなったのを覚えている。

ハーレムの自宅に着いた時はすっかり陽が暮れていた。10日前に引っ越してきたばかりのアパートにはまだカーテンもなく、電話も不通で日本の家族とも話せず、とてつもない不安に襲われた。朝から何も食べていなかったことを思い出し、冷蔵庫の食材でサラダを作ってみたもののまったく喉を通らない。テレビをつけたままベッドに横になる。疲れているはずなのに、怖くて不安で一睡もできなかった。

私の住まいはダウンタウンに面した角部屋だった。遠くの上空が煙で灰色になっているのがよく見えた。焦げたような独特な匂いがしばらく続いた。現場周辺区域は立ち入り禁止になり、私の学校もその区域に含まれていたため2週間休校となった。

しばらくして電話が通じるようになり、多くの友人が親から帰国を促されニューヨークを去った。私はかなりの覚悟を決めて渡米していたため、両親は一度も帰ってくるようには言わなかった。しかしさすがにテロを経験するとは予想しておらず、この体験が私のその後の人生に大きな影響を与えた。

私は10代のころから海外に興味があり、ラジオを通して海外の音楽やニュースを聴いていた。このまま残り、ニューヨークの今をラジオというメディアを通して伝え、日本との架け橋になれたらと思った。そんな想いから、ラジオ番組の製作会社でインターンを経て、正社員のディレクターとして6年勤務し、情報番組や音楽番組などを通してさまざまな人生やメジャーリーグの速報を日本に伝えてきた。911の時期は毎年特番を組み、街の変貌や回復力をさまざまな角度から検証し、自らの体験とも重なりとてもやりがいのある仕事だった。

「あの日」から今年で18年。今も私にとって9月11日は、立ち止まり、振り返り、初心に返る日だ。ビル崩壊の光景を思い出すたびに、あの時の気持ちが蘇る。でも今の私があるのは、あの体験があったからこそ。あの日失われたたくさんの命を無駄にしないためにも、私にできることに精一杯がんばって取り組みたいと、気持ちを新たにしている。

ニューヨーカー、911それぞれの記憶 3

木城 祐(ひろし)さん・45歳・不動産エージェント

ニューヨーク市立大学「New York City College of Technology」に通っていた私は、朝9時から始まる授業に出席するため、マンハッタン北部のハーレム地区からダウンタウンを経由してブルックリンのジェイ・ストリート駅へ向かうAトレインに乗っていた。

私はその朝たまたま寝坊してしまい、授業に遅れそうでずっとそわそわしていたが、電車の中は普段の朝と変わらなかった。電車はやがてダウンタウンのウエスト4ストリート駅(現場から地下鉄で18分ほどの場所)に到着し、しばらく停車した後、車内アナウンスが流れた。この列車は路線を変え、Fトレインという別の路線を走ると言う。

私は大きな路線変更に「ずいぶん珍しいな」と思ったが、世界貿易センターを経由してブルックリンに向かうAトレインと比べてFトレインはマンハッタン橋の北を通るため到着がずっと早い。授業に遅れたくない一心の私にとって、この路線変更は願ったり叶ったりだった。

ブルックリンのジェイ・ストリート駅に到着したら、物々しい雰囲気に気がついた。近隣住民、ビジネスマン、メッセンジャー、飲食店のウェイターなどたくさんの人々が通りに出て、マンハッタンの方角を見ながら声高に話している。事情が把握できなかった私はその脇を通り過ぎ、急ぎ足で大学に向かった。すると向こうからクラスメイトが、ツインタワーが攻撃され、休校になったことを教えてくれた。ポカンとした表情の私に、彼女は呆れた顔をして言った。「これは笑いごとじゃないわよ」。帰宅するために駅まで戻ったが、すでに駅は閉鎖された後だった。どうやら歩いてマンハッタンへ戻るしかないようだ。

歩いていると、もうもうと煙を上げるツインタワーが見えてきた。私の心臓は矢庭にドキドキし始めた。その時点で手前のブルックリン橋はマンハッタン方面からしか渡れないように規制されており、真っ白い灰を全身にかぶった女性や頭から血を流している若者など、人々が続々と橋を渡ってブルックリン方面に向かって来た。

警官の指示で、マンハッタンに戻りたければ、もう一つ向こうのマンハッタン橋を渡るしかないとのこと。橋の上から再びツインタワーを見たが、もうもうと煙が立ち上がり2つのタワーをすっぽりと包んでしまっている。やっと橋を渡り終えたら、マンハッタンのダウンタウンは完全なるカオス状態だった。道路は封鎖され、以南に立ち入れないようになっていた。警官や消防士、看護師が忙しそうに立ち回り、救急車がけたたましいサイレンを鳴らしながら何台も連なって通り過ぎる。

歩道には、人々が自宅や店からテレビを運び出していた。たくさんの人々が群がり、ニュースに食い入るように見入っている。そんな中、私はこれまでニューヨークで感じたことのない空気がこの街を包んでいるのに気づいた。道端でペットボトルの水を配るボランティア、泣き崩れるまったく知らない人々を抱きしめ慰める老婦人、神に慈悲を乞い祈りを捧げる人たちなど。そこにはニューヨーカーだけに通じる言葉があり、理解があり、人情味があり、包まれるような温かさがあった。

毎年9月11日が近づいてくるたびに考える。もしあの朝寝坊せず、普段通りの時間にAトレインに乗車し、世界貿易センターの駅を通過していたら、私は一体何を体験していただろう。今この瞬間に生きていることが奇跡であり、どれだけ素晴らしいことか、再認識せざるを得ない。いまだにこの街に存在する人種間問題や貧富の差などを超越し、すべてのニューヨーカーが911の悲劇を通じて1つの気持ちで繋がった稀に見る美しい瞬間を目撃して、私はこの街が一層好きになった。

画像制作:Yahoo! Japan
画像制作:Yahoo! Japan
原案:安部かすみ 画像制作:Yahoo! Japan 出典:米各紙より
原案:安部かすみ 画像制作:Yahoo! Japan 出典:米各紙より

(Text by Kasumi Abe) 無断転載禁止

ニューヨーク在住ジャーナリスト、編集者

米国務省外国記者組織所属のジャーナリスト。雑誌、ラジオ、テレビ、オンラインメディアを通し、米最新事情やトレンドを「現地発」で届けている。日本の出版社で雑誌編集者、有名アーティストのインタビュアー、ガイドブック編集長を経て、2002年活動拠点をN.Y.に移す。N.Y.の出版社でシニアエディターとして街ネタ、トレンド、環境・社会問題を取材。日米で計13年半の正社員編集者・記者経験を経て、2014年アメリカで独立。著書「NYのクリエイティブ地区ブルックリンへ」イカロス出版。福岡県生まれ

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