<朝ドラ「エール」と史実>「半額」どころか「クビ」になりかけた古関裕而。ピンチを救った金子の行動とは
契約から半年すぎても、いい作品ができない裕一。ついに契約金を半額にするとディレクターに言い渡されてしまいます。ドラマでは、音の機転でピンチを乗り越えましたが、実際の古関裕而は“クビ”になりかけた上、契約金を半額にされてしまいました。
事実関係を再確認しておきましょう。古関は、1930年10月、月額200円でコロムビアと契約しました。その後、ノルマの作曲を果たさなかったためか、契約途中の1931年5月に月額が90円に。そして1931年10月の契約更改では、月額が100円になってしまいます。
「こどもと一緒にヒットもかならず古関は産むから」
1931年の契約更改では、解約の危機もありました。なんとか契約を続けてもらおうと、古関は金子をともなって、文芸部長だった米山正(おそらく廿日市のモデル)の自宅に頼みに行ったそうです。
古関は、そのときのことをテレビで回想しています。一緒にいる作曲家の米山正夫は、米山正の息子です。
この会話だけでは、時期がわからないのですが、1931年で間違いないと思われます。
というのも、第一子の雅子氏が1931年12月生まれで、ちょうど「お腹に赤ちゃん」という回想と辻褄が合うからです(公式には1932年1月生まれとなっていますが、長男の正裕氏によると、前月にずらしたとのこと)。
これにたいして、次女の紀子(みちこ)氏は1934年7月生まれなので、10月の契約更改時期に合いません。なお、正裕氏は戦後生まれです。
「会社は、江口君の入社後、古関君と再契約しないと言い出した」
古関はもういちど、契約解除の危機を迎えています。こちらは、古賀政男の自伝に出てきます。
「江口君」とは、前回取り上げた、江口夜詩のことです。江口がコロムビア入りしたのは1933年ですから、この年の10月、ふたたび古関は危機を迎えていたわけです。
以上から、古関は少なくとも2回“クビ”になりかけたことがわかります。1回としている文献もありますが、それは間違いだと思います。もちろん、今後新しい資料が発見されて見直される可能性はあります。
そんなわけで、同じ条件で契約を継続できたドラマの裕一は、かなり恵まれていたといえるでしょう。それにしても、現実の金子はかなり大胆ですね。その活躍がなければ、古関のヒットも世に出ていなかったかもしれません。