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本能寺の変後もしぶとく生き残っていた、足利義昭のその後の生涯

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
足利家の家紋。(提供:イメージマート)

 大河ドラマ「どうする家康」では、古田新太さんが演じる足利義昭が再び登場した。本能寺の変後、義昭はいったいどうしていたのか、考えてみることにしよう。

 義昭はもともと僧侶として生涯を送る予定だったが、兄の義輝の死によって、室町幕府の再興を悲願とした。義昭の悲願を支援したのが、織田信長である。

 信長は義昭を推戴して上洛したが、のちに路線の相違もあって、2人は決裂した。義昭は毛利氏や本願寺と結託し、打倒信長を各地の大名に呼び掛けた。

 天正10年(1582)6月、信長は明智光秀が本能寺を急襲したことにより、自害に追い込まれた。信長の死後、代わりに天下人の名乗りを挙げたのが、配下の羽柴(豊臣)秀吉である。

 秀吉は織田信孝、柴田勝家を死に追いやると、最大のライバルだった徳川家康、織田信雄を屈服させた。そして、秀吉は関白に就任し、豊臣姓を天皇から下賜され、名実ともに天下人と認識されたのである。

 では、本能寺の変後、義昭は何をしていたのか。「信長死す」の一報を受けた義昭は、ただちに毛利氏らに帰洛の準備を進めさせようとした。

 しかし、毛利氏は本能寺の変の正しい情報を得られず、帰洛を躊躇している間に時間だけが過ぎていった。近年では義昭と光秀が本能寺の変以前から連絡を取り合っていたとの説があるが、関連史料からはそう読み取れない。

 先述のとおり、秀吉は信孝や勝家と戦うが、義昭は勝家に味方したので、両者の関係は悪くなった。その間、義昭は毛利氏だけでなく、島津氏らにも帰洛の援助をするよう求めるが、ことごとく失敗した。

 天正13年(1585)、毛利氏は秀吉との国境画定に同意し、和睦することになった。毛利氏が秀吉と和睦したので、軍事力を持たない義昭は、必然的に秀吉との関係修復に努めることになった。

 天正14年(1586)に九州征伐がはじまると、義昭は島津氏と秀吉との和睦を斡旋した。翌天正15年(1587)、義昭は鞆(広島県福山市)の近くで秀吉と対面したのである。九州征伐の終了後、秀吉は義昭による和睦斡旋の功を認めた。

 こうして、義昭は同年10月に帰洛すると、12月に大坂で秀吉と対面し臣従した。翌年、義昭は将軍を辞し、秀吉から山城槇島(京都府宇治市)に1万石を与えられると、出家して昌山道休と号した。以後、義昭は秀吉の御伽衆として厚遇されたのである。

 天正20年(1592)3月、義昭は秀吉とともに名護屋城(佐賀県唐津市)に赴いた。翌年、秀吉とともに帰京した。このときの長距離の移動は、義昭の心身を蝕んだ可能性がある。

 慶長2年(1597)8月、義昭はにわかに病に伏した。腫物があったという。それから義昭の病は癒えることなく、8月28日に大坂で没したのである。享年61。

 義昭には義尋という子がおり、大乗院門跡になっていた。義尋は慶長10年(1605)に亡くなり、この時点で足利家嫡流は滅亡したといわれている。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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