永寿総合病院は「もっと気をつけるべきだった」のか:室井佑月氏の発言と心理学から
<病院は「もっと気をつけるべきだった」のか。そうだ。私たちはいつも、「もっと気をつけるべき」だった。だから、「もっと気をつけるべきだった」には意味がない。>
■永寿総合病院の苦悩と世間からの評価、室井佑月氏の発言
新型コロナの院内感染が発生し、43名の死者を出した永寿総合病院。当時は、激しく責められました。誹謗中傷もありました。病院職員への偏見差別もありました。
院長は謝罪をし、今回は職員の手記が発表されました。
<発見遅れた最初の感染 永寿総合病院の院長「甘かった」:朝日新聞7/1>
<【手記全文】大規模な院内感染 経験した医師ら3人が語ったこと:NHK7/1>
「死ぬかもしれない 子ども達を頼む」(内科医師)
「事態の重大さ その場に座り込んでしまった」(血液内科医師)
「仲間を戦地に送り出しているような気持ちに」(看護師)
「泣きながら防護服を着るスタッフも」
「横断幕が目に入り、『まだ私たちはここにいてもいいんだ』と思えました」
これらの手記に対して、今日7/2放送のテレビ番組「ひるおび!」の中で、室井佑月氏は、美談にしてはいけない、病院は責められるべきと語りました。
■室井佑月氏の発言内容
「こういう美談を出してきて」
「すり替えっぽく感じる」
室井氏は、個人は悪くないとしながらも、
「病院は責められるべき」
「病院側経営者は反省すべき」
「病院から広がるなんてことはやめてほしい」
「もっと注意しなければいけなかった」
と発言しました。
■専門医からの反論
同番組に出演していた日本感染症学会専門医の寺嶋毅氏は、語ります。
「3月当時はまだ無症状でもうつすとは分かってなかった」
「どこでも起こりえたこと」
「その段階でどれだけのことが日本の病院でできたのか、未知のウイルスと戦うにはどんな準備ができたのか」
「本当に責めていいのかと僕自身はわからない」
寺島医師は、個人的にも永寿総合病院のことをご存知のようで、しっかりとした病院だと語っていました。
■永寿総合病院は「もっと気をつけるべきだった」のか
はい。気をつけるべきでした。院内感染により多くの方が亡くなったのは、重大なことです。院長ご自身も「甘かった」と語っています。
しかし、何か良くないことが起きた時には、私たちは常に「もっと気をつけるべきだった」と言われのです。
本人自身も、そう思うでしょう。事故を起こした時、子供が怪我や病気になった時、仕事で損失を出した時、失恋した時、ケンカをしてしまった時、ああしていれば、こうしていなければと、人は考え悩みます。
自分や家族が被害にあった時には、なぜもっと気を付けてくれなかったのかと、相手を責めたくもなるでしょう。
たしかに、もっと気を付けていれば、防げたことはあったかもしれません。しかし、それによって相手や、時には自分自身を、責めるべきかどうかは別の問題です。
制限速度40キロの道路を、徐行して時速5キロで走っていたら、事故は防げるでしょう。しかしそれは、現実的ではありません。ドライバーは、一切おしゃべりなどせず、常に正面を見続けて0.1秒でも横を見るなというのも、非現実的です。運転しながら、ちらりとカーナビを見たりもします。
世界の誰もまだ正体がわからず、国内でも判断が揺れていた新型コロナに対して、どれほど気をつけるべきだったのか、どれほど注意することができたのかは、慎重に検討されなければなりません。
裁判なら、証拠を積み重ねながら、予見可能性があったのか、適切な程度の注意義務は果たされていたのかが、審議されることでしょう。
■人はなぜ「もっと気をつけるべきだった」と感じるのか
社会心理学の研究によると、人は物事の原因を過剰に、「人」のせいにしてしまいます。本当は、多様で複雑な事情が絡んでいるのに、そこには目を向けず、その人のせいだと感じてしまうのです。
「病院の責任」というのも、目に見えない病院組織を問題にしているのではなく、経営者や管理者の責任を問うているのでしょう。
さらに、人はある出来事が起きた瞬間に、そのことは事前に予測できていて当然だと感じてしまいます。
特に意地悪な人だけの発想ではありません。心理学の研究によれば、それは人間の自然な心理なのです(原因帰属理論:人は原因理由をどう考えるか:責任追及、いじめ、仕事、恋愛の社会心理学:Y!ニュース個人有料)。
だから私たちは、いつも不当に責められていると感じますし、また法的責任を問うような場合は、感情を抑えた冷静な調査が求められるのです。
<報道ステーション富川悠太アナウンサーのコロナ謝罪:人はなぜ不当に責められるのか>
■「もっと気をつけるべきだった」と安易に責めることの問題:再発防止のために
不幸な出来事が起きた時には、私たちは「もっと気をつけるべきだった」と感じます。いつも感じるのです。だから、ある場面で「もっと気をつけるべきだった」と言っても、問題改善にはほとんど役立たないのです。
新型コロナに限らず、院内感染は病院にとって大きな問題です。各病院は、気を付けています。しかしそれでも、院内感染は発生します。その度に、「もっと気をつけるべきだった」と病院を責めるだけでは、問題は改善されません。
飛行機事故が発生した時には、ありとあらゆる可能性を考えた、徹底した調査が行われます。深い海の底からも、墜落した飛行機の部品が集められます。
その結果、たとえば「金属疲労」といった、新しい現象が発見されたりもしました。当時は、誰もその現象を知らなかったのです。飛行機の設計は、改善され続けています。事故調査の成果は、飛行機以外の分野にも生かされています。
機長の操縦ミスと結論づけられた時も、「もっと気をつけるべきだった」では終わらせません。なぜ機長には判断ミス、操作ミスが起きたのかを、医学、心理学、人間工学、組織学などの観点から、深く考察されます。
人間のミスをヒューマンエラーと呼びますが、この考え方では人間のミスを原因とは見ずに、結果と見ます。様々な要因が絡んだ結果、事故につながる人間のミスが起きたと考え、ヒューマンエラーを発生させた要因を改善しようとするのです(失敗とヒューマンエラーの心理学:自分のパターンを知り対策を考えよう:Y!ニュース個人有料)。
たしかに、室井佑月氏が主張するように、美談で終わらせてはいけないことがあります。責任追及が必要なこともあります。しかし、安易に「もっと気をつけるべきだった」と責めるのは、問題改善につながらず、かえって現場で苦闘している方々の意欲をそぐことになります。
緊急時に必要なのは支援と理解であり、事後に必要なのは冷静な調査と再発防止への現実的努力なのです。
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