掛布氏が語った道具へのこだわり
美津和タイガー。
1947年に創業された僕らの世代には懐かしい響きの野球用品ブランドだ。
虎のイラストにTigerのロゴ。虎印の野球用品として有名で、当時のアドバイザリースタッフが阪神タイガースの掛布雅之氏だっただけに、なおさら、そのイメージが阪神と重なった。筆者も高校時代、野球部で丸坊主だったが、ガリガリだったセンターのプレイヤーが、美津和タイガーの黄色いグローブを使っていたことを今でも印象深く覚えている。
職人気質の高い品質。「飛ぶ」と評判だったW圧縮バット、「ジャックルが減る」と言われたDDグローブなど、最先端の技術を生かした用品を提供してきた革新的なメーカーだったが、事業の拡大路線に失敗して、せっかく阪神タイガースが優勝してマーケットが拡大した1985年に倒産した。その後、1996年に会社を再建、一般向きの軟式野球用品などを販売してきたが、このほど28年ぶりに2014年から本格的に硬式の野球用品の生産、販売を復活。偶然にも、25年ぶりにGM付育成&打撃コーディネイターとして現場に復活した掛布さんを再びアドバイザリースタッフを迎え入れ、限定の復活記念モデルとして掛布さんが現役時代に使っていたバットの復刻モデル、復刻グローブが販売されることになった。来年の秋からはスパイクも投入、新しく契約するプロ選手も増やしたいという。
社長の深江豊治さんは、感慨深く掛布さんとのこんなエピソードを教えてくれた。
「掛布さんは倒産した後も『がんばって再建してください』と1年間、うちの商品をそのまま使っていただいたのです。再建まで時間がかかりましたが、その恩は今でも忘れません」
その横で、虎印野球用品の復活会見に同席した掛布さんは、「昔は、野球用品と言えば、虎印か、カップ印(ミズノ)しかなかったんだよね。プロ3年目を終えたときに、その虎印から用品提供の話をもらって本当に嬉しかった。入った頃は、折れたバットに釘を打ってテープを巻いてマシンを打ったりしていたから。でも、そうとうのわがままを聞いてもらった。道具にはこだわったからね」と、セピア色の時代を原色の時代に戻しながら懐かしそうに振り返っていた。
ミスタータイガースが、特にこだわったのはバットだ。935グラムで34インチ。手首に死球を受けて骨折してからは、その手首に負担がかからないようにグリップを太くしてバランスを考えヘッドも太くした。いわゆるツチノコ型だ。しかし、このタイプのバットは重量が増す。そこから935グラムのバットを製造するのは至難の工程である。掛布氏が、感謝の気持ちをこめて、オフに富山工場に行くと、青タモの荒削り前のバットが1000本ほど置いてあり「僕の要求に応えられるバットは、このうち何本くらいですか?」とバット職人さんに聞くと「10本くらいでしょうか」との答えが返ってきたという。
「バットのスタイルを変えたことで左手で押し込むバッティングが可能になった。レフトへ流し打つホームランが増えたのは、美津和さんのおかげ。倒産した後、マークはウイルソンを付けたが、実は、中身は美津和さんのバットだった。あのバックスクリーン3連発も、球宴での1試合3発のバットも虎印でした」
グローブにもこだわった。ゴロ、フライ、併殺と、それぞれ打球の種類に分けて補球ポイントが3つある深めの角ばったグローブが好みで「最初は固いが、どんどん自分のスタイルに育てていく。毎年、オフにオーバーホールしながら4年目から引退まで15年間、ひとつのグローブを使い続けた」というから驚きである。
毎年、痛んだ箇所や、グローブの中の皮だけを入れ替え、古い外の皮と馴染むまでは、油などを塗るが、融合してくると軽くするため、再び油を除去するなど細かいメンテナンスを繰り返しながら15年もの間、ひとつのグローブにこだわり続けた。そのグローブがあったからこそ、守りにおいても掛布スタイルが確立できたのだ。「だからダイヤモンドグローブを6回取れた」と言って周囲を笑わせた後、掛布さんは、阪神の若手へメッセージを送ることを忘れなかった。一流になるためには、道具に対して、もっとこだわれ!という持論を展開した。
「今の若い選手も、しっかりと道具にこだわりを持っている。でも一流になるならば、もっとこだわりを持って欲しい。藤田平さんが、そうだったけれど、まるで佃煮に見えるまで長くグローブを使われた。金本や新庄もそうだろう。今成と良太とはキャンプでグローブについて話をした。良太は巨人の村田モデルにするらしいんだけれど、それを良太モデルに変えていって欲しいと思う。松井秀喜もメジャーに言ってバットのグリップを工夫して変えたというような話をしていた。そういうこだわりが技術の向上につながると思う」
逸品は人を育て、人が逸品を育てる。