家康が驚愕した上杉謙信と今川氏真との密約とは
大河ドラマ「どうする家康」では、家康が遠江侵攻を目論んでいた。その前提となる上杉家と今川氏との密約について、考えることにしよう。
永禄10年(1567)の前半頃、今川氏真と上杉謙信は密約を結ぶべく、交渉を開始していた。上杉家にとって、武田氏は不倶戴天の敵だったので、悪い話ではない。
この2年前、今川義元の娘(嶺松院)の婿だった武田義信(信玄の子)が失脚し、今川・武田の両家の関係が怪しくなっていた。氏真は、武田、北条と同盟し、娘を送り込んでいたのだから対応を迫られた。
永禄10年(1567)4月、氏真は謙信に対し、謙信が信濃に出兵すること、信玄が裏切った場合は互いに協力することを申し合わせた。そして、同年10月に義信が亡くなったことで、氏真は武田家との同盟を解消しようと考えたのである。
上杉・今川が密約を結んだことは、ただちに武田方に伝わった。しかし、信玄にとっては、氏真の不穏な動きがかえって駿河侵攻の口実となった。信玄にとって、「渡りに船」だったのである。
話は前後するが、信玄は駿河侵攻後、一方の同盟者である北条氏に理解を求めていた。信玄の言い分によれば、氏真は上杉と通じて武田家を滅亡させようとしているので、越後が深い雪で身動きできないときを見計らって、駿河に攻め込んだというものだった。
信玄は織田信長とあらかじめ連携したうえで、駿河侵攻を企てていた。永禄11年(1568)7月、信長は足利義昭の上洛に供奉することになっていたので、飛騨を配下におさめていた信玄が妨害しないよう、事前に申し合わせていたのだ。もちろん、これには意味があった。
信玄が駿河に侵攻すると、今川氏と姻戚関係にある北条氏の存在が不気味だった。そこで、信玄は信長に協力することで、信長の同盟者の徳川家康の協力を得ようとしたのだ。それは、家康による遠江侵攻で、今川氏を挟撃しようとしていたのだ。
こうして永禄11年(1568)12月、信玄は信長、家康と和議を結んだうえで、今川領の駿河に攻め込んだ。同時に、家康も今川領の遠江に侵攻したのである。