沖縄勢の躍進と強さの秘密
2010年、興南の春夏連覇に代表されるように、近年の沖縄勢の躍進はめざましい。今センバツ大会には4年ぶりに2校が出場する。2校出場は2回目だが、九州大会決勝が沖縄勢同士だったのは初めて。沖縄開催だったアドバンテージを割り引いても、部員わずか12人の八重山商工も健闘するなど、レベルの高い九州でも沖縄がトップの戦力だったことは間違いない。沖縄尚学が神宮大会で優勝したことでも明らかだ。以前は、沖縄勢が登場するだけで「判官びいき」のファンは応援したものだが、今や全国を代表する強豪県に成長した。
苦しい本土復帰前
沖縄の人たちは概して運動能力が高い。特に瞬発力、筋力に優れ、これまでから、日本のスポーツ界にも大きな足跡を残してきた。ゴルフ、体操、バレーボールやボクシングなどでは、沖縄出身者や沖縄由来の人の活躍が目立つ。ただ、体格が小さいこともあって、フィジカル(体力)面では若干劣り、コンタクトを伴う競技(代表的なものはラグビー)はあまり向いていない。沖縄が本土に復帰したのが昭和47(1972)年。復帰前に活躍したのは昭和43年夏の興南(4強)だけで、大半が初戦敗退。沖縄野球の原点とも言うべき興南の活躍は特筆されるが、延べ13校で計6勝は寂しい数字だ。全体としてはやはり練習試合の相手に恵まれず、洗練された本土の野球を熟知した指導者がいないことが大きなハンディとなっていたようである。
豊見城の活躍
沖縄が「強豪」と認知されたのは、本土復帰後間もない昭和50年春に初出場した豊見城(とみしろ)の活躍からである。
初戦でその年の夏に全国制覇する習志野(千葉)を破ると、日大山形も倒して8強入り。そして現巨人監督の原選手擁する東海大相模(神奈川)との準々決勝は九分九厘、勝利を手にしかけていたが、9回2死から逆転サヨナラ負けを喫した。沖縄びいきのファンは涙でナインを見送り、豊見城の名は全国に知れ渡る。主戦の赤嶺賢勇投手(巨人)は、「ムチャクチャ球が速かった」と対戦した誰もが話す剛速球を、ダイナミックなフォームから投げ込んでいた。沖縄史上最強のスラッガー石嶺和彦選手(阪急ほか)の打棒も火を噴き、昭和51年から3年連続で選手権ベスト8の記録を打ち立てた。その豊見城を率いたのが「沖縄高校野球の父」と呼ばれた栽弘義監督(平成19年逝去)である。中京大(愛知)で本土の野球を学んだ栽氏は、厳しい練習で選手たちを鍛え上げ、本土の強豪に立ち向かった。のちに沖縄水産ではさらにチームを強化し、2年連続選手権準優勝。この人を抜きに沖縄の野球は語れない。
沖縄野球の父・栽監督の夢
私は一度だけ、栽氏を取材したことがある。とにかく威厳のある人だった。平成10年(ちなみにこの年の春夏が栽氏にとって最後の甲子園となる)のセンバツ前の甲子園練習時、私はどうしても聞きたいことがあった。当時、沖縄勢のセンバツでの成績がふるわず、私は「センバツ期特有の寒さのせいで力が発揮できないからだろう」と思っていた。そういう趣旨の質問をしたところ、「そんなことはない!」と一喝された。「そんなものは、負けたときの言い訳ですよ。年じゅう練習できるわけだから、絶対そんなことはない」と語気を強めた。沖縄の選手たちの「寒くて身体が動きませんでした」という言葉をたびたび耳にしたことがあるから、あながち的外れではないと思うのだが、「甲子園で優勝するまで沖縄の戦後は終わらない」という言葉にこだわった栽氏が強硬に否定した裏には、練習量ではどこにも負けていないのに試合で負けられるか、という意地が垣間見えた。栽氏は、真紅の優勝旗が手の届くところまでたどり着いたが2年連続決勝で涙をのんだ。夢はやがて教え子へと受け継がれる。
沖縄尚学初優勝
翌、平成11年のセンバツ。沖縄尚学が旋風を巻き起こした。尚学の左腕・比嘉公也投手は、初戦で比叡山(滋賀)の村西(横浜)との1-0の投手戦を制して勢いに乗った。次の浜田(島根)戦は寒さで動きが鈍る中、全員が簡易カイロをポケットに忍ばせて乗り切った。市川(山梨)にも競り勝って迎えた準決勝はPL学園(大阪)との激闘。今も沖縄勢の甲子園最高試合として燦然と輝く。尚学は9回にサヨナラ負けのピンチを切り抜け、延長11回にようやく勝ち越す。しかしすぐさまPLに追いつかれる苦しい展開で、比嘉投手の体力も限界かと思われた。それでも尚学は続く12回に決勝点を挙げ、粘るPLを振り切って8-6で勝った。比嘉投手の200球を超える熱投と全員野球は「逆転のPL」のお株を奪うものであった。決勝では比嘉投手に代わり照屋投手が力投。古豪の水戸商(茨城)を破った瞬間、沖縄の悲願が達成されたのである。このチームを率いたのが金城孝夫監督(現長崎日大高監督)で、栽氏の豊見城時代の教え子に当たる。
選手として、監督として
比嘉投手は愛知学院大に進み、指導者を目指していた。平成15年夏、母校の臨時コーチという立場でチームに帯同していた大学4年の彼に甲子園で会った。
「故障もあって、選手としてはもう引退ですね。9月に教育実習で尚学に行くんです。母校でなくてもいいから、指導者として甲子園に帰って来たいですね」と熱っぽく語っていた。当時、尚学での教員採用は難しいようなことを話していたとも記憶しているが、運も味方したのだろう。わずか5年後の平成20年、母校監督として甲子園に戻ってきた彼は、指導者という自身の夢を果たした。しかも東浜(ソフトバンク)を擁して優勝し、再び県民を熱狂させたのである。この当時の選手は皆、甲子園で力投する比嘉監督に憧れて、尚学の門を叩いていた。比嘉監督は栽氏からみれば「孫弟子」ということになるのだろう。星稜(石川)の山下智茂総監督も、「若いのに選手のことをよく見ている」と評していた。尚学は優勝後、しばらく低迷したが、昨春から3大会連続の出場となる今チームは、神宮大会優勝校として全国から目標にされている。
原点・興南が春夏連覇
残された県民の夢は「夏の優勝旗」だけになった。それも2年後には現実のものとなる。沖縄旋風の原点となった興南が、春夏連覇を果たした。率いたのは興南旋風時の主将だった我喜屋優監督。社会人野球(大昭和製紙)でも監督を務めた我喜屋氏は、栽氏とは違った厳しさを持っている。極寒の北海道での生活が長く、「なんくるないさ(なんとかなるさ)」という沖縄の人特有ののんびりした性格が、ここ一番の勝負で弱さを覗かせるということから、徹底して選手の生活面を指導した。特に時間厳守は徹底した。集合に1分1秒でも遅れた選手には練習をさせない。センバツ優勝後には、生活の乱れた選手からレギュラーを剥奪するなど、一切の妥協を許さなかった。その興南ですらここ3年、甲子園から遠ざかっている。今大会では尚学に加え、美里工が初陣となる。美里工は県大会で尚学を破っていて、同等の戦力という評価もある。夏の優勝も叶った沖縄県民は、県勢同士の決勝を夢見ているだろう。甲子園を狙える強豪がほかにも何校かあり、今や沖縄の高校野球レベルは全国屈指と言える。
沖縄躍進の要因
沖縄勢の強さの秘密は単に豊富な練習量だけではない。試合相手を求めて本土に遠征できるのは限られたチームだけだ。特にセンバツでの活躍がめざましいのには理由があるはずだ。栽氏は甲子園の寒さを言い訳にしなかったが、春の寒さは常について回る。興南はセンバツ前、バケツに入れた氷水に手を浸けてからノックや打撃練習をしたと聞いた。そんな小さな工夫も一因ではあるだろう。それよりも私は、近年、強豪校がセンバツ前に沖縄で練習試合(3月8日解禁)を重ねることが大きいのではないかと思っている。毎年、センバツ出場校のうち6~7校が沖縄で調整する。昨春優勝した浦和学院(埼玉)や龍谷大平安(京都)、北照(北海道)などは、強化のポイントとして最重視している。平安の原田監督は、「3月と言っても沖縄の選手たちは仕上がりが早いので、いい刺激になります」と話す。出場校同士の練習試合は禁じられているから、今大会に出場するチームは、興南や宜野座(昨秋県4位)あたりが最強の相手と思われるが、尚学や美里工は甲子園に出ないチーム、つまり浦学や北照とは手合わせできる。多くのプロ球団が沖縄でキャンプを張るようになって、県内各地に立派な球場が増え、交流の機会が減ることはない。沖縄のチームにとっては、本土の洗練された野球をじかに体験できる大きなチャンスが、向こうからやってきたのである。すなわち、お互いがいい刺激を与え合うことが大きいのではないかと思う。以前、センバツで不振だった沖縄勢が寒さにやられたというのはやはり栽氏が言うように、単なる言い訳だったのかもしれない。