名付け親は江夏豊。“誠”を信念に「誠グローブ」を作り続けるイクノ工房
■目を引いた「誠」の文字
野球の道具に日本名、漢字のロゴを見ることは珍しい。富山GRNサンダーバーズから横浜DeNAベイスターズに復帰した古村徹投手を取材しているとき、ふとグローブが目に留まった。そのグローブには「誠」というロゴが入っていた。「誠グローブ」というそうだ。
グローブについて語ってもらった話はすでに紹介しているが(参照記事⇒古村投手の誠グローブ)、そのグローブ自体が気になり、古村投手がニューグローブをオーダーするとき、工房に同行させていただいた。大阪の堺にある「イクノ工房」という。伺ってみると「誠グローブ」には、ほかにはない特徴があることがわかった。
工房に足を踏み入れると、ところ狭しと置かれた革の生地や革紐などの素材、またアンティークな風情のミシンなどが出迎えてくれる。ここからオリジナルのグローブが生み出されるというワクワク感が満ちている。そんな中で、代表の生野秀次さんに話を伺った。
■江夏豊、衣笠祥雄ら、大スター選手から絶大な信頼を得る
平安高校の野球部でプレーしていた生野さんは、2年のときに体を壊しマネージャーになった。当時から手先が器用で、その仕事ぶりが評価され大阪学院大学に進んだ。卒業後、大学に販促にきていたことで縁ができたオニツカ株式会社に入社した。
すると入社直後、オニツカ社は株式会社ジィティオ、ジェレンク株式会社と合併して社名が株式会社アシックスに変更され、野球道具をはじめとするスポーツ用品総合メーカーとなった。1年目の生野さんは倉庫の担当だったが、2年目からプロ野球の担当となり、広島東洋カープと近鉄バファローズが受け持ちとなった。
担当球団には江夏豊、衣笠祥雄という球界を代表する大スターがいた。「はじめは無茶も言われましたよ(笑)。衣笠さんには、普通なら製作に1ヶ月はかかるスパイクを『明日3足持ってきて』と言われたりもした」。
それでも選手の意見を聞いては職人さんと相談して、選手の意に添うものを作ろうとする姿勢は、だんだんと信頼を得ていった。
「衣笠さんは『オマエは笑ってごまかしやがって』と言いながら、かわいがってくれたしね。江夏さんも他球団に移籍しても『生野にやらせ』と指名してくれた」。
その信頼を証明するかのように、工房の隣の応接室には“お宝”がいくつも飾られている。衣笠選手やカル・リプケン・ジュニア選手のグローブ、伝説となった“江夏の21球”のときのものをはじめとする江夏投手の節目、節目のグローブや200勝を達成したときのスパイク…など、野球ファン垂涎ものばかりだ。
「ケン・グリフィーのお父さんのほう(ケン・グリフィー・シニア)が来日したときには、観光案内もしたねぇ。めちゃくちゃ男前でしたよ(笑)」などという思い出話まである。
■修理で全国を回る日々
しかし江夏投手が引退するとともに、プロ野球担当を離れることとなった。次の部署では、全国の高校などを回ってグラブの修理をする仕事を担当した。「北は北海道・稚内から南は沖縄・那覇まで、マイクロバスを改造した車でね」。
今では行っているメーカーも多いが、このようなアフターメンテナンスをするのはアシックス社が先駆けだったという。
現地で営業所の人と合流するが、移動は常にひとりだ。「酒も飲まんしね。気楽やった。趣味も楽しみもグローブの修理やから。グローブ触ってたら機嫌いいんで」。そう笑うが、年間300日、それを12年間続けた。1年に日本2周(北海道と沖縄は年に1度)で24周、36万キロ走ったと振り返る。
それもこれも、「修理が好き」に尽きるという。原体験があった。高校時代、平安高の生徒が利用していた修理屋があった。「おっちゃんの仕事を見てて、楽しそうやなぁと思っていた」。
さらにさかのぼり「小学生のころ、グローブの紐通すのとかもアニキにやらされてた。昔はボールを縫ったりしてたけど、高校生のアニキが持って帰ってきたボールを縫うのも、アニキより速かった。好きやったんやなぁ」と、懐かしむ。
■グローブの理想形はローリングス
そんな生野さんだから、修理のキャラバンは天職ともいえた。しかしアシックス社に入社して約20年が経ったころ、希望退職者の募集があった。「誰かが辞めないといけないのなら、辞めます」と退職した。1996年のことだ。
そこで修理をメインに、最初は他の人と始めて1年間やったが、事情により翌年から自分ひとりでやることにした。アシックス社の下請けの修理や加工も受け、その腕で仕事はどんどん増えていった。
そんな折、縁があって修理だけでなく一からグローブを製作することになった。実は生野さんの胸の内には「グローブを作りたい」という思いが秘められていたのだ。
念願かなった生野さんの頭の中にはグローブの理想形があった。「アシックス時代のローリングスのグローブとの出会いが大きい」という。「僕らの高校時代、プロのほとんどがローリングスを使っていてね。憧れというか、特別なものやったね。値段も倍ほどするし」。
そんな遠い存在だったローリングスのグローブを、入社して手にすることができた。アシックス社がローリングス社とライセンス契約を結んでいたのだ。そのときに驚いたのは、その形状だ。
「グローブをはめて手を出したときに、自然な形になる。親指が素直に正面を向く。手のひら側に入り込まない。手が不自然な向きにならない」。
さらに革自体もよく、修理を繰り返して10年以上使える耐久性もあったという。
それが生野さんの中で“基本形”になっている。今も「自然に手が出て、グローブと手が一体化する。手の動きに素直である。柔らかくグローブを使える」ということをもっとも大切にして、グローブ作りをしている。
手の自然な動きに合っていないグローブだと、手をグローブに合わせないと捕球できず、そうすると腕がロックされてしまうという。自身が野球経験者であること、さらには多くの野球選手の話を聞き、その要望を職人に伝えて形にしてきたこと―。これまで積み重ねてきた多くの引き出しが、“手の一部”になり得るグローブを生み出させているのだ。
生野さんは「ボールを入れるのではなく、ボールを扱えるグローブ」という表現をする。
■「誠グローブ」の名付け親は江夏豊氏
そうして生み出したグローブに名前をつけた。それが「誠」というブランド名だ。この名前は生野さんの息子さんの名前でもあるが、そこには特別な意味があった。
2007年に長男が誕生したとき、奥さんの祐子さんが江夏氏に命名をお願いした。「男の子ならつけたるよ」と快諾してくれた江夏氏から授けられたのが「誠」という名だった。このとき生野さんは、思わず「ほんとにいいんですか!」と聞き返した。実はそれは、江夏氏にとって特別な思いが込められた大切な名前だったのだ。そのことを知っていた生野さんは「身震いした」と同時に、江夏氏がそれほどまでに自分のことを思ってくれていることに感激し、ありがたく頂戴した。だから、グローブにもその名を冠したかった。
こうしてこの世に誕生した誠グローブだが、細々と販売をしている中、大学の後輩である小林寛投手(のちにベイスターズに入団。現在はJFE西日本)が使ってくれるようになった。
「神宮大会でも使ってくれてね。誠グローブのメジャーデビューでしたよ(笑)」。プロ入りしても使い続けてくれ、誠グローブ愛用者のプロ第1号となった。
またあるとき、熊本にあるスポーツショップで誠グローブを手に取った少年がいた。当時、店頭には全国で2軒しか置いておらず、そのうちの1軒が熊本にあった。
中学生になったばかりのその少年は誠グローブをはめてみるなり「これ、ええなぁ」と、その吸い付くような感触に惚れ込んだ。ふと見ると、ブランド名である「誠」の文字が刺繍されている。「僕の名前だ!」。その少年とは現在、カープで活躍しているアドゥワ誠投手だった。
以来、中学、高校、そしてプロへと進み、幾多の大手メーカーから誘いがきても断り、誠グローブを愛用し続けている。「漢気(おとこぎ)やね。今もずっと使い続けてくれるなんてね、ほんとに義理堅い」。生野さんは嬉しそうに目を細める。
さらに韓国でも大ブレイクしかけたことがあった。女優のキム・テヒやチェ・ジウが韓国プロ野球の始球式で使い、韓国市場での商機が訪れたのだ。だが、あまりにも話が膨大すぎて逆にまとまらず消滅した。ただ、韓国ではいまも誠グローブの人気は高く、多くの韓国プロ野球選手からのオーダーを得ている。
そして今、誠グローブの愛用者である古村投手も再びプロの世界に舞い戻った。「使ってくれているのを見たら感動やね。アドゥワくんや古村くんが使ってくれてるのを見て、注文の電話もかかってくるし。古村くんは関東方面からね(笑)」と生野さんは相好を崩す。
■信念は“誠”
現在、奥さんの祐子さん、職人の木下成人さんとの3人で工房を切り盛りしているが、今も試行錯誤しているという。「ただ縫うだけじゃダメだから。頭ではわかっていても、形にすることが難しい。これで完璧というのは、なかなかないから」。
生野さんが考えたものを木下さんが形にする。グローブ作りはセンスだというが、木下さんは「みどころがある」と、生野さんも認める腕前だ。
祐子さんは刺繍や接客、ネットでの注文などを担当している。「秋口から年末は少し落ち着くけど、年末から準備に入って春に向けて戦争ですよ(笑)」と、これから目の回るような忙しさになるという。シーズン前から新入生の時期は、工房中にパッキンが山積みになる。
「誠グローブ」はすべてオーダーで、手作業にて作られる。そこには生野さんの信念が宿っている。「ものに対しても人に対しても“誠”ですよ」。
それはコツコツとものを作り、コツコツと信頼関係を築いてきた生野さんの人柄、そして生き方そのものである。
(表記のない写真の撮影は筆者)
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