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アフガニスタン撤退をめぐる英国的「後始末のつけ方」(1)

六辻彰二国際政治学者

英国によるアフガニスタン和平協議の提案

2月4日、英国のキャメロン首相はアフガニスタンのカルザイ大統領、パキスタンのザルダリ大統領を首相別邸に招いて首脳会談を行い、6ヶ月以内にアフガニスタンの旧支配勢力、タリバンとの和平合意を目指すという共同声明を発表しました。この会合にはタリバンにも参加が呼びかけられていましたが、タリバンはこれに出席しませんでした。

英国はなぜ、この会談をプロモートしたのでしょうか。そして、タリバンを含む和平合意は成立するのでしょうか。

英国に1回負け、2回勝った国

英国とアフガニスタンの因縁は、19世紀にさかのぼります。両者はある時には協力してお互いを利用しあい、またある時には戦闘を繰り返してきた間柄です。

19世紀初頭からアフガニスタンは、イランからチベットに至るまでの地域でユーラシア南下を目指すロシア帝国と、植民地インドの確保を至上命題とする英国の衝突「グレートゲーム」の余波を受けました。死活的な植民地であったインドを北方から脅かされることを恐れた英国は、当時のアフガニスタンを支配したアミール(「イスラーム信徒の長」を指す尊称)と1855年にペシャワール条約を結び、相互の領土保全と一方の敵に対して協力してあたることを約しました。ロシア帝国やガージャール朝イランから防衛することで、英国はアフガニスタンへの影響力を増していったのです。

しかし、これに対してアフガニスタンは英国の威光を利用しつつも、影響力の浸透に抵抗するようになります。アミール、ドースト・ムハンマド・ハーンがロシアの外交使節を受け入れたのは、その象徴です。これに英国は不信感を強め、かつてアフガニスタンを支配した一族、サドゥザーイー族の残党を擁して侵攻しました(第一次アフガン戦争:1838-42)。現地の支配勢力と敵対する者を味方につけ、それを支援する顔をして軍事侵攻する手法は、帝国主義時代によくみられたものでした。しかし、「七つの海を支配した」英国軍は、内陸の山岳地帯を駆け回るアフガン騎兵のゲリラ戦術に翻弄されて、まさかの敗退。その後、1878年に再びアミール、シェール・アリーがロシア外交使節を受け入れたときに、英国は再び軍事侵攻を試み、これによってアフガニスタン支配に至りました(第二次アフガン戦争:1878-80)。

ただ、勝利したとはいえ、直接支配することの困難さを痛感した英国は、アフガニスタンの独立性を容認しつつも、その外交権を掌握し続ける「保護国」とする決定をします(1880)。ロシアとインドとの緩衝地帯としてアフガニスタンを位置づけた英国は、直接支配することが困難な以上、ロシアに接近させないことをもってよしとせざるを得なかったのです。

ところが、英国により保護国とされたアフガニスタンでは、「鉄のアミール」と呼ばれたアブドゥル・ラフマーン・ハーンや、その後継者であるハビーブッラー・ハーンのもと、着々と反転攻勢の準備が進められました。アブドゥル・ラフマーン・ハーンは「イスラームの地の防衛」を至上命題とした一方、表面的には英国との友好関係を維持し、その支援の下で王立軍事学校、近代的な病院、水力発電所などの建設を推し進められたほか、徴兵制の導入や国有地の払い下げなど、軍事、産業、民生の各領域で近代化が推し進められました。つまり、歴代のアミールのもとでアフガニスタンは、英国の協力によって近代化し、国力をつけることで、最終的にイスラームの地から英国を追い出す下準備をしたといえるでしょう。

この準備が奏功した契機は、第一次世界大戦(1914-18)にありました。未曾有の大戦争の結果、19世紀の超大国・英国は経済的・軍事的に衰退の道をたどり始めました。さらに、1919年のヴェルサイユ条約で「民族自決」が掲げられ、そして第一次世界大戦で英国に軍事的に協力したにもかかわらず、この原則が適応されないことへの不満からインドで暴動が発生し、南アジア一帯が不安定化し始めました。この機を逃さず、1919年5月、当時のアミール、アマヌッラー・ハーンは英国に対するジハード(聖戦)を宣言し、インドに侵攻して英軍との衝突に突入(第三次アフガン戦争:1919)。同年8月、英国との間で結ばれたラワルピンディー条約により、アフガニスタンは外交権を回復し、アフガニスタン王国として完全独立を果たしたのです。

再びアフガニスタンへ

19世紀、英国は「日の没さない帝国(世界中に植民地があったため、どのタイミングであっても、そのうちのいずれかは必ず昼間であった)」と呼ばれた植民地帝国でした。そして、その英国が触手を伸ばしながら、完全には支配しきれなかった数少ない例外の一つがアフガニスタンだったのです。そのアフガニスタンに、英国が再び関与を強めたのは、2001年の米国同時多発テロ事件以降のことでした。

1979年、ソ連によるアフガン侵攻(1979-89)が発生しました。これに抵抗するため、世界中からイスラーム義勇兵(ムジャヒディーン)が参集し、国際テロ組織アル・カイダを創設したビン・ラディンなど、その後世界的に知られることになったイスラーム主義者たちは、このときにアフガニスタンで邂逅したといわれます。

この頃、ソ連だけでなく、ソ連から援助を受けたアフガニスタン人民民主党による社会主義政権に対抗するイスラーム組織の一つとして、タリバンの結成を支援したのが、隣国のパキスタンでした。パキスタンは独立以来、カシミール地方の領有をめぐって隣国インドと争っていますが、冷戦時代のインドはソ連と友好関係にあり、必然的にパキスタンは米国と友好関係にありました。そのなかで、パキスタン政府はアフガニスタン難民に対して、神学校を通じて「思想教育」を施し、さらに軍事訓練を行いました。インドだけでなく、ソ連に援助を受けたアフガニスタンの社会主義政権に対抗する「手駒」として、タリバンはパキスタン政府によって育成されたのです。

ところが、ビン・ラディンら海外のより過激なイスラーム主義者たちとの交流のなかで、タリバンは米国と友好的なパキスタン政府と距離を置き始めました。ソ連撤退後、混乱する国内を武力で抑えたタリバンは、1996年に首都カブールを占領し、「アフガニスタン・イスラーム首長国」の独立を宣言。イスラーム法(シャリーア)に基づく支配を打ち立てたのです。その一方で、アル・カイダのビン・ラディンなどを国内に匿い、さらに東は中国の新疆ウイグル自治区から西は地中海沿岸に至るまでのネットワークを形成するなど、アフガニスタンはイスラーム過激派の一大拠点になりました。こうしてタリバンは、「生みの親」パキスタンにも、徐々に手に負えない存在になっていったのです。

このうち、同時多発テロ事件の首謀者ビン・ラディンを匿っていたことが、アフガニスタンに対する米国の報復攻撃を呼んだわけですが、これと行動をともにしたのが英国でした。米英軍の攻撃によって政権の座を追われたタリバンは野に下ったものの、外国の軍隊やその支援を受ける新生アフガニスタン政府に対するテロ攻撃を通じて抵抗を続けてきました。これに対応するため、2001年12月の安保理決議とアフガニスタン暫定政府との協定に基づき、国際治安支援部隊(ISAF)が派遣され、国内の治安維持、新生アフガニスタンの軍や警察の訓練、テロリストの掃討作戦などを担ってきましたが、これに英軍は9500人を派遣しており、その規模は50カ国におよぶ派遣国のうち米軍の6万8000人に次ぐものです。また、英国王室のヘンリー王子も、20週間にわたってアフガニスタンでの任務に就きました。

そして再びアフガンからの撤退へ

英国政府がアフガニスタンへ米国と同行した大きな背景としては、冷戦終結とEU創設後にとりわけ顕著になった、「米国とヨーロッパに二股をかけて、両者の間を繋ぐことで存在感を保つ」外交方針がありました。また、イラク攻撃(2003)が「大量破壊兵器を保有している」というほとんど「言いがかり」で行われたことと比較すれば、アフガン攻撃の場合は少なくとも当初は「9.11に対する報復」を大義としていたため、国際的にも大きな非難を浴びることはありませんでした。これもあって、少なくとも当初(米国と同様に)英国内部でアフガニスタンでの軍事行動に批判的な意見はほとんどありませんでした。

ところが、やがて自国兵員の犠牲者が増え、財政負担が重くのしかかるなか、米国と同じく英国でも出口の見えない対テロ戦争への厭戦ムードが広がりをみせるようになります。2010年1月、アフガン攻撃当時英国首相だったトニー・ブレア氏は独立調査委員会の公聴会で証人喚問され、「大量破壊兵器が発見できる」という報告に情報操作があったのではという質問に「訂正されるべきだった」と応じたうえで、「多くの国が大量破壊兵器の存在を信じていたうえ、それがテロリストに渡る可能性は見過ごせなかった」と主張しました。先述のように、イラクとアフガニスタンではやや事情が異なります。しかし、そもそも首相経験者が証人喚問されること自体が英国では異例で、それだけ米国に協力的な外交姿勢への不満が市民に浸透していることをうかがえます。

その一方で、ISAFは2014年末までに任務を完了し、アフガニスタンから撤退することになっています。それが視野に入り始めた現在、米国オバマ政権はアフガニスタンからの撤退も加速させています。冒頭で述べた三者会合の直後の2月12日、オバマ大統領は議会での一般教書演説で、アフガン駐留軍の約半数3万4000人の撤退を発表。最大の同盟国、米国が撤退を急ぐ状況が、英国政府をしてアフガニスタンから手を引くことを促しているといえるでしょう。キャメロン首相、アフガニスタンのカルザイ大統領、そしてパキスタンのザルダリ大統領の会見は、内外の事情から英国がアフガニスタンへの関与を弱めざるを得ない状況のなかで行われたのです。

国際政治学者

博士(国際関係)。横浜市立大学、明治学院大学、拓殖大学などで教鞭をとる。アフリカをメインフィールドに、国際情勢を幅広く調査・研究中。最新刊に『終わりなき戦争紛争の100年史』(さくら舎)。その他、『21世紀の中東・アフリカ世界』(芦書房)、『世界の独裁者』(幻冬社)、『イスラム 敵の論理 味方の理由』(さくら舎)、『日本の「水」が危ない』(ベストセラーズ)など。

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