【その後の鎌倉殿の13人】尼将軍・北条政子が伝染病の流行を防ぐために行ったこと
元仁2年(1225)は、4月20日に改元され、嘉禄元年(1225)となりますが、この年は、流行病が蔓延した年でありました。『吾妻鏡』(鎌倉時代後期に編纂された歴史書)によると「病死の者は数千人に及んだ」とされます。
そうした大いなる災いのなか、三浦義村・二階堂行村・僧の定豪・大蔵卿法印良信、陰陽師の安倍国道らが、北条政子に呼ばれて、参集します。政子は、二階堂行村を通して、参集した者たちに、次のような言葉を伝えました。
「今、世間では流行病のために死者が数千にも及んでいます。その災いを祓うために、般若心経・尊勝陀羅尼経を一万巻、書写して供養をするか、それとも、他に何か方法がないか考えるように」と。政子は多くの人々が、伝染病で亡くなっていく状況に心を痛めていたのでしょう。
僧侶の定豪は、鎌倉・鶴岡八幡宮別当(長官)に任命されたこともある者でしたが、彼は政子に「千人の僧侶に千部の仁王経を講読させては如何でしょうか」と提案。更に、定豪は、法印良信と共に、政子に言葉をかけます。
「嵯峨天皇の御代に、疫病が流行し、国中に死者が出たことがございました。そこで、天皇御自ら筆を取って、般若心経をお書きになり、弘法大師(空海)に供養させたそうです」と。
政子は彼らの言葉を聞いて「般若心経を書写することが良かろう」との考えに至り、書写を命じます(『吾妻鏡』)。
そして、5月22日には、鶴岡八幡宮において、僧侶1200人がお経を唱えたり、お経の書写などが行われたのでした。