豊臣秀吉の死後、家康が失脚しそうになった当然の理由
大河ドラマ「どうする家康」では先のことになるが、豊臣秀吉の死後、家康が失脚しそうになった。その理由について、考えることにしよう。
文禄4年(1595)8月、豊臣秀吉は御掟を定めた。内容は、大名間の縁組に際して、事前に秀吉の許可を得ることを定めたものだった。それは、大名間で盟約を結ぶことを禁じることも意味した。
大名間の縁組は、同盟関係の構築につながる。秀吉は、無断で執り行われた縁組が謀叛につながることを予見しており、それは秀吉の死後も暗黙のうちにルールとして残っていた。
秀吉の病状が悪化したのは、慶長3年(1598)6月のことだった。秀吉の病名は判然としないが、脳梅毒説、痢病(赤痢・疫痢の類)説、尿毒症説、脚気説などの諸説がある。亡くなったのは、その2ヵ月後のことである。残された我が子の秀頼は、まだ6歳の少年に過ぎなかった。
秀吉の死後、ただちに徳川家康は不穏な動きを見せた。家康は豊臣家に断りを入れずして、ほかの大名家との婚姻を行おうとした。その婚姻相手などは、次のとおりである。
①辰千代(後の忠輝・家康の六男)と五郎八姫(伊達政宗の長女)。
②氏姫(家康の養女)と蜂須賀至鎮(蜂須賀家政の嫡子)。
③満天姫(家康の養女)と福島正之(福島正則の養子)。
この婚儀が秘密裏に無断で実行されようとしたので、石田三成ら五奉行たちは怒り心頭に発した。家康の不穏な動きは、これだけに止まらなかった。
家康は有力な諸大名である、増田長盛、長宗我部盛親、新庄直頼、島津義久、細川藤孝(幽斎)の伏見屋敷をしきりに訪問していた。これは「掟」に抵触しないが、多数派工作との疑念を抱かせた。五奉行たちは家康の動向を危険視し、警戒心を強めた。
やがて、石田三成をはじめとする五奉行は、「掟」を根拠にして、家康に誓書の提出を求めた。結局、家康は「掟」への違反を認め、今後遵守する旨を誓約した。慶長4年(1599)2月のことである。いかに家康とはいえ、「掟」への違反は糾弾されたのだ。