松平信康だけではなかった!戦国時代の恐るべき3人の殺人鬼
前々回の大河ドラマ「どうする家康」では、松平信康が僧侶を殺していた。こちらも参照。実は、戦国時代には恐るべき殺人鬼がいたので、そのうち3人を紹介することにしよう。
1.宇喜多直家(1529~81?)
宇喜多直家と言えば、謀略により多くの武将を殺したことで有名である。備中国の三村家親は、直家の命を受けた遠藤兄弟よって射殺された。遠藤兄弟は、「戦国のスナイパー」として名を馳せた。こうして直家は、敵対する中小領主を次々と暗殺したのだ。
直家は、舅の中山勝政すら謀略で殺害した。直家は酒宴に勝政を招き、酔ったところで凶行に及んだという。これは、主君たる浦上宗景の命令だったが、直家はあまりにも冷酷非情な人物として描かれている。
2.豊臣秀次(1568~95)
豊臣秀次は養父の秀吉から切腹を申し付けられたが、その原因として、数々の悪行が挙げられている。たとえば、鉄砲の稽古と称して、農民を撃ち殺したり、あるいは弓矢の稽古と称して、行きかう人々を弓で射ることがあったという。
また、刀の試し斬りをするため、辻斬りをしたと言われ、その数は数百人に及んだと伝わる(「関白千人斬り」)。それゆえ秀次は、「殺生関白」と世の人に恐れられた。殺人以外にも、秀次の素行不良の逸話は、数多く残っている。
3.前田茂勝(1582~1621)
前田玄以の子・茂勝は内政を蔑ろにし、京都で乱行・放蕩三昧の生活を送った。事態を憂慮した家臣・尾池清左衛門父子は茂勝に諫言するが、逆に斬り殺された。また、諌言した家臣に切腹を命じるなど、極めて理不尽な処分を下したのである。
慶長13年(1608)、茂勝は数々の不行状によって、幕府から改易を申し渡され、所領を没収されることになった。そして、甥である出雲国松江(島根県松江市)の堀尾忠晴に茂勝は預けられたのである。
ここに挙げた3人の殺人鬼ぶりは、質の悪い史料に書かれたものもあるので、すべてを鵜呑みにするわけにはいかない。後世になり、彼らを貶めるため、歪められた可能性があることを付記しておく。