【鎌倉殿の13人】朝廷から検非違使に任命された武士がすぐに任官を止められれた納得の理由
嘉禄2年(1226)4月19日、鎌倉幕府の御家人・内藤盛時は、朝廷から検非違使(都の治安維持などを担当。かつて源義経が任命されたことでも有名)に任命されました。ちなみに、盛時の父は、内藤盛家入道。
盛時は、盛家の次男でした。盛時には、兄がいて、それが嫡男の内藤盛親です。盛親は、父に従い、在京したり、在国(本領にいる)したりという状態。一方の次男・盛時は、関東にいて、日夜、幕府に仕えていたのです。
さて、父・盛家入道は、盗賊を追捕したとして、朝廷からその恩賞を与えようということになりました。盛家入道は、嫡男よりも、次男・盛時の方を可愛がっていたようです。そこで、自分(盛家)ではなく、次男・盛時を恩賞(検非違使に任官)を与えてくれるよう図ったとのこと。しかし、鎌倉幕府は、嫡男であることを重視して、盛親を検非違使に推薦していたのです。それを盛家入道が勝手に、次男・盛時を推薦。それが朝廷に認められて、冒頭に記したように、盛時が検非違使となったのです。
そこで、幕府において、この件に関する評議が行われました。そして、盛時の任官を止めるということが決定されたのです。『吾妻鏡』(鎌倉時代後期編纂の歴史書)は、盛家入道の勝手な振る舞いは「咎」(とが)であり、次男が兄を越える「理」(ことわり)はないとして、今回の決定に至ったと記されています。