【その後の鎌倉殿の13人】北条政子の「無茶振り」を受けて困惑した北条泰時が相談した人物とは
貞応3年(1224)6月13日、北条義時は62歳で死去。その報を受けて、義時の嫡男・北条泰時は、都から鎌倉に舞い戻ります(6月26日)。そして、伯母である北条政子(67歳)と対面するのです。これが、6月28日のことでした。
泰時が政子のもとに参上したのです。政子からは、泰時に対し、次のような言葉がありました。「北条時房(政子や義時の弟)を後見人として、武家のことを執り行え」と(鎌倉時代後期に編纂された歴史書『吾妻鏡』)。寿永2年(1183)生まれの泰時、この時、41歳でした(時房は、49歳)。
政子の仰せを受けての泰時の返答は『吾妻鏡』には記されていませんが、おそらく「畏まりました」と承諾したのではないでしょうか。しかし、同書によると、政子の命令に泰時は内心、困惑していたようです。(後々のことを考えると、この決定は早過ぎるのではないか)と。
悩みを抱える泰時が相談したのが、大江広元でした。広元は、久安4年(1148)生まれで、この時、76歳。元々は、都で朝廷に仕える下級貴族(官僚)でしたが、30代の頃に鎌倉に下向し、鎌倉幕府の公文所(一般政務の処理を行う機関。後に政所と改称)の別当(長官)に就任。
広元は政所の別当にもなりますが、源頼朝の腹心として、都と鎌倉を往復し、朝廷と幕府の交渉を担うこともありました。頼朝亡き後は、北条政子や義時と協力し、幕府の基盤を固めていきました。
承久の乱(1221年)の時には、広元は、関東での官軍(朝廷軍)迎撃論を退けて、軍勢を西上させて官軍を撃破するべきと説きました。経験も豊富で、幕府の草創に尽力してきた広元は「生き字引」のような存在だったでしょう。
そんな広元は、北条泰時の悩みにどのように回答したのでしょうか。