銀行改革は顧客の再定義から始まる
金融庁は銀行に対して顧客本位の徹底を求めていますが、商業の常識として顧客本位を徹底するためには、銀行は、顧客を特定し、特定された顧客に対して特定された業務の提供を行わなければならないはずですが、それに程遠い現状のなかで、いかにすれば顧客本位を徹底できるのか。
預金取扱金融機関の顧客とは
金融庁は、金融機関に持続可能なビジネスモデルへの転換を求めるなかで、顧客本位の徹底を重点施策に掲げていますが、金融に限らず商業一般においては、事業の再構築は顧客の再定義から始まるのですから、抽象的に顧客本位の徹底といっても、単なる精神論になるだけで、実効性のある施策にはなり得ません。
しかも、銀行や信用金庫等の預金取扱金融機関については、顧客の定義すら、必ずしも明瞭ではありません。例えば、融資先を顧客として特定するのならば、預金者は、顧客というよりも、融資の原材料の調達先として扱われるべきものとなり、逆に、預金者を顧客として特定するのならば、融資業務は顧客に支払うべき預金利息を稼得することに位置付けられて、融資先のほうが預金利息の原材料の調達先となるからです。
預金取扱金融機関の顧客は融資先
預金取扱業務の本質は信用創造です。銀行等が預金を原資にして融資をすれば、それと同じ金額だけ債務者の預金を増加させますから、その増加分も銀行等は次の融資の原資にできる、この預金の増幅効果が信用創造です。
信用創造は、経済成長において、極めて重要な意味をもちます。なぜなら、成長の初期段階においては、資金の供給能力、即ち個人貯蓄の形成に比して、産業界の資金需要が圧倒的に優越するために、その不足を補う仕組みが必要だからです。実際に、戦後の日本は、国策として、高い参入障壁を築いて預金取扱金融機関を手厚く保護し、零細な個人貯蓄を預金で吸収させて、それを融資として産業界に還流させることにより、高度経済成長を実現したのでした。
故に、信用創造を銀行等の預金取扱金融機関の本業とするのならば、その顧客は融資先となって、預金者は、顧客というよりも、融資の原資の調達先にすぎなくなるのです。
資金不足から資金過剰へ
経済が成長するにつれて、一方では個人貯蓄が積み上がってきて資金の供給能力は増大し、他方では限界成長率の低下に伴って資金への需要が相対的に低下するので、必然的に資金不足は解消に向かい、いずれは逆に資金過剰に転じます。日本の場合、おそらくは30年以上も前に逆転が生じて、今となっては極端な資金過剰に陥っているのです。
銀行等の預金取扱金融機関の現状は、預金総額が融資総額を大きく上回っていて、その過剰な預金は、いわば売れる見込みの全くない過剰在庫として、経営を圧迫しているのですから、非常に深刻な危機のもとにあるといえるわけです。もはや、信用創造は、不要というよりも、極めて有害なのであって、金融構造が必要なのです。
金融の舞台を資本市場へ
信用創造を抑制するためには、産業界の資金調達の主舞台を資本市場に移転させる必要があります。即ち、産業界が銀行からの融資への依存度を低下させ、替わりに資本市場を通じて社債や株式等を発行し、それらを個人が直接に、あるいは投資信託を通じて取得すれば、預金は減少に向かい、信用創造は抑制されていくわけであって、この構造転換は緊急性の極めて高い金融行政の課題なのです。
また、産業構造改革のためにも、資本市場を通じた金融の意義は大きいのです。預金を原資とした融資は、預金に元本保証が付されていることとの関係で、強い制約のもとに置かれますから、未来への大きな不確実性を伴う成長分野への資金供給や、過去の大きな負の遺産の整理を伴う構造改革の断行に対する資金供給には適していません。
それに対して、資本市場は状況に応じた多様な資金供給方法を提供できます。その代表例は、いうまでもなく、株式の発行による資金調達ですが、その特性は、弁済期日と定期的な利息の支払いをなくすことにより、企業に対して、構造改革や成長戦略の断行について、長期的な取り組みを可能にさせることにあるのです。
更には、市場規律を通じたガバナンス改革の視点も重要です。企業にとって、融資による資金調達は、銀行との間の密室の交渉で決められますから、銀行が納得すれば済むことで、銀行にとっては、元利金の回収が確実でありさえすれば、企業が成長しなくとも、非効率な経営がなされていても、納得できるわけです。ところが、開かれた資本市場では、成長戦略や経営効率化について市場参加者の納得が得られなければ資金調達ができませんから、資本市場を通じた金融には企業の構造改革を促す強い効果があるのです。
資本市場における顧客とは
誰が顧客であるかは、需要優先の原則で決まることですから、資金不足のときは、資金調達側の需要が優越するので、それに応えていた銀行等の顧客は融資先だったわけですが、資金過剰に転じた後は、貯蓄の保有者である個人の資金運用の需要が優越するわけですから、その運用場所である資本市場においては、顧客は、直接的に、あるいは間接的に、個人なのです。
間接的に個人が顧客であるという意味は、資本市場において重要な役割を演じている投資家は、年金基金や生命保険会社等の機関投資家にしても、投資信託を運用する投資運用業者にしても、その運用資産は個人のものであるか、あるいは個人の権利に帰属するものだということです。
社債や株式などを引き受ける証券会社にとっても、見かけのうえでは、顧客は発行体の企業ですが、個人等の投資家に売れないものを引き受けても意味はなく、投資家に売れるものを引き受けている限りは、その真の顧客は投資家であって、発行体企業は売れる商材の調達先にすぎないのです。証券会社の引き受け行為は、銀行の融資と比較するとき、企業への資金供給という機能は全く同じでも、誰が理論的な顧客であるかという点において、本質的に異なるわけです。
銀行等の投資信託の販売における顧客とは
銀行等の法人業務においては、融資先が顧客であることは明瞭ですが、個人業務においては、個人向けに融資を行うときは、個人が顧客であるのは自明ですが、預金を受け入れるときにも、それが融資業務のための原資調達であるにもかかわらず、言葉のうえでは預金者を顧客としてきたわけで、そこには顧客定義の曖昧さがあったのです。
この曖昧さが深刻な問題を生じたのは、銀行が投資信託の販売を始めたときです。投資信託の販売は、新たな貯蓄手段の提供として、預金との間に連続性があるにしても、融資原資の調達にすぎない預金の受け入れとは本質的に全く異なるものとして、個人を正面から顧客に位置づけるものとして、開始される必要があったわけですが、実際には、融資を本業とする組織風土のなかで、単なる副業として始まってしまったのです。
副業だから、いわゆる手数料稼ぎに堕してしまうわけです。銀行等の場合、信用創造による産業界への資金供給を本業としてきた歴史的経緯のなかで、個人業務は融資原資の調達という機能に圧倒的に支配されてきたわけですから、そこに個人を顧客とした業務運営の風土を形成することは極めて困難だったと考えられます。
そして、事実として、投資信託の販売は、本業との関連が希薄なものとして、単なる副業の域にとどまらざるを得ず、しかも、構造的に行き詰ってきた本業の収益性が低下するに連れて、それを補うべく、単なる手数料稼ぎに堕していったことも自然の勢いだったと思われ、結果として、著しく顧客の利益を損なう事態も現出したわけです。
金融庁のいう顧客本位
故に、金融庁は、銀行等に対して、当初は投資信託の販売のあり方の是正として、顧客本位の徹底を求めたわけですが、もともと、金融行政として、投資信託の販売を銀行等に認めたのは、金融の主舞台を資本市場に移転していく構造改革の一段階であったはずですが、銀行等からすれば、それは本業に対立する方向にあるものとして、本業を縮小させていく意味をもつわけですから、副業以上のものとして位置づけ得るはずもなく、そこで顧客本位の徹底を求めても、効果は期待できず、事実として顕著な効果はないのです。
そこで、金融庁は、持続可能なビジネスモデルの構築を求めることになったわけです。つまり、信用創造による産業界への資金供給というビジネスモデルは、もはや完全に崩壊したといわざるを得ず、銀行等は、資本市場を中心とした金融構造を前提にして、そのなかで独自の新たな持続可能性のあるビジネスモデルを構築しなければならないということです。
その際、中核となる思想は、金融庁のいうとおり、顧客本位です。新たなビジネスモデルとしての顧客本位とは、法人業務については、融資先を顧客に特定して、融資を超えた多様な資金供給方法を提案し、更には、資金供給すらも超えて、資金使途そのものへ訴求した提案を行うことであり、個人業務については、全く新たに個人を顧客に特定し、個人の生活から生じる様々な金融機能の需要に適切に対応した業務運営態勢を構築することなのです。