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[高校野球]2024年のデキゴト⑥松坂世代以来27年ぶりに神宮を制した横浜。44連勝にどこまで迫るか

楊順行スポーツライター

 第55回明治神宮大会を制したのは、横浜(神奈川)だった。「秋」を制するのは、あの松坂大輔(元西武など)がいた1997年以来だから、27年ぶりということになる。

 村田浩明監督は、新チームがスタートしたとき、目標をこう掲げたという。

「15連勝して、秋は完全優勝しよう」

 旧チームから2年生キャプテンを務めた阿部葉太、左腕エースの奥村頼人、最速148キロの大物1年生・織田翔希ら、神奈川で準優勝した夏の主力が大半を占める。秋の神奈川、関東、明治神宮大会を無傷で勝ち抜く完全優勝はまあ、その実力通りかもしれない。

「秋の集大成」(村田監督)という神宮大会の決勝は、広島商から4点を先行して優位に進め、1点差に詰め寄られた9回も、織田を救援した奥村頼が見事な火消し。村田監督は、「1試合1試合、素晴らしいチームとの戦いでしたが、しっかり準備してきたからこそ、優勝につながったと思います。100回に、1000回に1回のプレーでも、ふだん練習しているからできる」という。

 100回に1回のプレーというのはたとえば、東洋大姫路(兵庫)との準決勝だ。タイブレークの10回、バントと申告敬遠で1死満塁とサヨナラのピンチ。打席に阪下漣という場面で、村田監督はレフトの大石宙汰を内野手の林田滉生に代え、二塁ベース付近に置いた。内野5人。がら空きのレフトに飛べばもちろんサヨナラ負けだが、「相手打者はレフトに引っ張れない」と緻密に分析しての判断だ。これが当たり、阪下は空振り三振。ピンチをしのいだ横浜は11回表、決勝点を挙げて近畿の強敵を振り切った。

小学生時代、たまたま目にした渡辺監督の記事

「100回に1回の……」とは、村田監督の恩師・渡辺元智氏がつねづね口にしていたことだ。村田が神奈川・川崎市の小学生だったころ、所属する学童野球のチームは、学童軟式野球・神奈川県大会の決勝まで進出する。だがそこで敗れ、小学生の甲子園と呼ばれる全国大会出場はならず。翌日の新聞に掲載された結果を見て、悔しさがこみ上げたが、村田少年の目はその下の記事に釘付けになった。

 横浜・渡辺監督のことが書かれている。1986年生まれの村田監督の小学校6年といえば、98年。ちょうど松坂の在学していた横浜が、春の関東大会を制したあとのことだ。なにぶん小学生だから、高校野球のことは詳しく知らず、内容は細かく覚えていない。だが村田少年は、その記事にひどく興奮した。その後、その渡辺監督率いる横浜が春夏連覇を達成するにいたり、憧れとともにこう思った。自分も横浜高校に入りたい——。

 そして念願の横浜に入学すると、2年生だった03年センバツで捕手として準優勝を経験。1学年上の成瀬善久(元ロッテほか)、同学年の涌井秀章(中日)が投の二枚看板だった。3年の夏も、チームは甲子園でベスト8まで進んだが、このときは1年生の福田永将(元中日)にマスクを譲っている。それでも渡辺監督は、村田の人間性を評価し、キャプテンに指名していた。

 涌井がエースのこの年の横浜は強かった。だが——春の神奈川と関東を制し、さあ夏本番という5月末。渡辺監督が突然の脳梗塞に倒れて入院する。村田も実は、前年秋の県大会3回戦で敗れると、ストレスからか胸に痛みが走り、主将退任を申し出たことがある。だが渡辺監督は「オマエにしかできない」。最後の夏を前にしても、ときには病床の監督から「オマエたちの力で甲子園に行け」とメールが入ることもあった。その信頼がうれしかった。

 だから監督不在の間も、懸命にチームの舵を取った。出られなかった3年春のセンバツでは、たった1人、準優勝旗の返還で入場行進した。夏の甲子園ベスト8は、その悔しさを晴らすものだった。そして在学中に渡辺監督から「オマエは指導者になれ」といわれたとおり、村田は日体大を経て指導者となる。ただし、最初に率いたのは母校ではなく、県立高校だった。村田はいう。

「大学のころからコーチとして母校のお手伝いはしていましたが、渡辺監督には"私は県立で勝負します"と宣言したんです」

 横浜のほかにも東海大相模、桐光学園……と強豪がひしめく激戦区・神奈川で、県立校の夏の甲子園出場は、1951年の希望ヶ丘までさかのぼる。すでに70年以上前。「県立で神奈川から甲子園へ」というのは並大抵なことではない。

 日体大卒業後、「奇跡的に、20倍という高い倍率の採用試験をパスして」赴任した神奈川県立霧が丘高では野球部長を務め、13年に異動した白山でも部長を経て監督となったが、やはり神奈川は甘くはない。なにしろ就任当初、グラウンドは雑草だらけ。バッティング練習が終わったら帰りたがるような生徒の集まりである。初めての夏だった14年は初戦で敗退し、15年夏は1勝したものの、16年夏も初戦負けだ。

 だが根気よく練習を積み重ね、少しずつ結果が出ると選手たちも「練習はきついけど、楽しいよな」と変わっていく。18年には、北神奈川大会でベスト8まで進出し、横浜商大に敗れたものの手応えを得た。だが19年、母校・横浜で指導者の不祥事が発覚。OBの村田監督に、後任として白羽の矢が立つことになる。

 母校をなんとかしたいのはヤマヤマだ。しかし、県立で甲子園へという夢がある。迷いに迷った。最後は、高校時代同様恩師・渡辺監督の「オマエしかいない」という声に背中を押され、母校の監督に転じたのが20年の春である。それから5年目。横浜に入学するきっかけを与えてくれた松坂世代に並ぶ、秋シーズンの15連勝だ。ちなみに……松坂世代の97〜98年、横浜は神宮を制したあとも春夏の甲子園、そして国体と44勝無敗で優勝し、4冠を達成している。

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は64回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて55季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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