石田三成、毛利輝元らが徳川家康を討たねばならなかった、複雑な事情
大河ドラマ「どうする家康」では、石田三成が「打倒家康」の兵を挙げる決意をした。そこに至る決断を下すまでには、実に複雑な事情があったので確認することにしよう。
慶長4年(1599)閏3月に前田利家が没した直後、七将による石田三成訴訟事件が勃発した。実はこれ以前、毛利輝元は浅野長政を除く四奉行と結託していたのだが、あまり知られていないだろう。
輝元は三成を支援すべく奮闘するが、結局は失敗に終わり、三成は佐和山城(滋賀県彦根市)への隠退を余儀なくされた。結果、家康は自身の与党を形成することに成功し、以降も勢力の拡大に余念がなかった。
同年9月、前田利長、浅野長政らの謀叛が発覚し、家康は前田氏の討伐を諸大名に命じた。驚いた利長は横山長知を家康のもとに送り弁明を行い、母の芳春院を江戸に人質として送ることで討伐だけは免れた。
結果、利長は家康に屈服することになり、長政は武蔵府中(東京都府中市)に流罪となった。家康の処分によって、一大老、一奉行が失脚したのである。
慶長4年(1599)末から翌年初めにかけて、宇喜多騒動(宇喜多氏の家中騒動)が勃発した。騒動の原因は諸説あるが、宇喜多秀家が新参家臣を起用し、新体制を築こうとした結果、譜代の家臣と対立したことはほぼ疑いない。
一連の騒動により、秀家と対立した家臣が家中を出奔したので、宇喜多家の弱体化が進んだといわれている。家康は宇喜多騒動の仲裁に介入し、宇喜多家中から出奔した家臣を東国で庇護した。宇喜多騒動の解決の過程において、家康の影響力は非常に大きかったといえる。
慶長5年(1600)6月15日に会津征討の陣触れが出され、大老の上杉景勝が討伐の対象となった。会津征討を各武将に伝えたのは、三奉行(長束正家、増田長盛、前田玄以)だった(『黄薇古簡集』など)。
内容は出陣の日時は家康が決めること、家康の命令に従うべきことである。軍事面は家康に委任されたが、会津征討はあくまで秀頼の意志によるもので、それは三奉行の承認を前提として遂行されたと指摘されている。
五大老は豊臣政権を支える存在なので、彼らを脅かすことは、イコール秀頼への反逆とみなされた。家康への謀叛は、秀頼への謀叛と見なされたのである。
景勝が上洛しないことは秀吉の遺命に背くことであり、秀頼への不忠でもあった。家康はこうした論理を振りかざし、次々と五大老や五奉行の面々を追い込んだのである。
利長が屈服し、秀家が弱体化し、景勝が討伐の対象になると、五大老の輝元は「次は自分ではないか」と疑心暗鬼に駆られたかもしれない。それは、長政、三成の失脚したあとの残りの三奉行(長盛、正家、玄以)も共有していた可能性が高い。
三奉行は家康派だったが、決して安泰ではなかった。かねて輝元は家康に対抗心を抱いていたが、ついに討伐を決意し、三成らとタッグを組んだというのが実情ではないか。
主要参考文献
渡邊大門『関ケ原合戦全史 1582-1615』(草思社、2021年)