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【「麒麟がくる」コラム】越前で明智光秀と出会った足利義昭。光秀は朝倉氏に仕えていたのか!?

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
朝倉氏の本拠の一乗谷。明智光秀は朝倉義景に仕えていたといわれている。(写真:GYRO PHOTOGRAPHY/アフロイメージマート)

■朝倉氏に仕えていた光秀

 放映が明日に迫った大河ドラマ「麒麟がくる」。舞台は、いよいよ越前に。

 義昭が上洛すべく諸大名に頼ろうと奔走していた頃、すでに明智光秀は越前の朝倉義景に仕えていたという。光秀が朝倉氏に仕えたとされる根拠史料は、後世の編纂物『明智軍記』『綿考輯録』である。

 以上の史料に基づき、ごく簡単に経緯などを触れておこう。

■各地を遍歴する光秀

 光秀は父を失ってからのち、各地を遍歴していたという。弘治2年(1556)に訪れたのが越前国であった。光秀は越前国に留まり、義景から500貫文の知行で召し抱えられたといわれている。1貫文は現在の貨幣価値に換算して、約10万円である。したがって、光秀が支給されたのは、約5000万円だ。

 光秀は義景から命じられるままに鉄砲の演習を行い、その見事な腕前から鉄砲寄子100人を預けられたという。光秀の軍事に対する高い才覚は、義景に評価されたのだ。義景は光秀と初対面なのだから破格の扱いであり、大抜擢といえよう。その後、義昭が越前を訪れ、光秀を配下に加えたのだ。

■一次史料に登場しない光秀

 以上が、光秀が朝倉氏を頼り、義昭に仕えるまでの流れである。ただ、問題なのは、光秀がそれだけの人物でありながらも、朝倉方の一次史料や記録類に一切登場しないことである。朝倉氏の重臣といってもいいくらいなので、非常に不審な点である。

 さらに、根拠となる『明智軍記』や『綿考輯録』は、史料としての問題点が非常に多い。具体的に言えば、二つの史料は信用できない。『綿考輯録』は細川家の正史であるが、光秀と越前に関わる記述については、悪書とされる『明智軍記』の内容を踏まえている。

■光秀と竹なる人物との関係

 それでも、光秀が越前と深い関係を有していたとの指摘もある。

 『武家事紀』所収の天正元年(1573)に比定される8月22日付の光秀書状(服部七兵衛宛)は、一時期光秀が越前で生活していた根拠とされてる。

 内容は「この度、「竹」の身上について世話をいただいたこと、うれしく思っております。恩賞として100石を支給します。知行を全うしてください」というものである(現代語訳)。

 上記の史料は、同年8月に織田信長が朝倉氏を滅亡に追い込んだ後、光秀が越前で発給したものである。

 この史料からは、残念ながら光秀が越前にいたことを示す内容とは読めない。この史料は、単に光秀が「竹」なる人物の世話をしてくれた恩賞として、服部七兵衛に100石を与えたものである。そもそも「竹」なる人物は不詳であり、光秀との関係もわからない。

 つまり、この史料は越前朝倉氏を討伐した関係で服部七兵衛に発給されただけで、少なくとも光秀が越前にいたという証拠にはならないだろう。光秀が越前にいたことを示すという指摘は、史料解釈の大きな飛躍にすぎないのである。

■光秀は本当に越前にいたのか

 結論を言えば、ここまでに取り上げた『明智軍記』や『綿考輯録』の記述、『武家事紀』所収の天正元年(1573)に比定される8月22日付の光秀書状(服部七兵衛宛)は、光秀が越前にいたことの証拠にならない。

 ところが、越前には光秀がいたことを示す伝承や史跡が少なからず残っており、『遊行三十一組 京畿御修行記』という史料によって、多少は風向きが変わったようである。

 その点については、改めて取り上げることとしたい。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書など多数。

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