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「どうする家康」秋山虎繁と織田信長の叔母・おつやの方は、どうやって結ばれたのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
織田信長。(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「どうする家康」では、三方ヶ原の戦いのシーンだった。それ以前、秋山虎繁と織田信長の叔母・おつやの方が結ばれたので、その辺りを取り上げることにしよう。

 岩村御前は、織田信定の娘として誕生した。織田信長の叔母にあたる。ところで、信長は美濃国岩村城(岐阜県恵那市)主の遠山景任との連携を考えていた。岩村城は尾張から信濃、甲斐へ通じる要衝で、武田氏を牽制するためだった。

 こうして信長は、叔母のおつやの方と景任を結婚させた。おつやの方は大変な美貌の持ち主で、かつて織田家の家臣と結婚していたことがあったという。したがって、景任との結婚は、再婚ということになる。

 元亀3年(1572)8月、景任は後継者たる男子がないまま病没した(景任の没年は諸説あり)。一説によると、景任が岩村御前の美貌に心も体も奪われ、精力を吸い尽くされたからであるというが、これは後世の創作に過ぎないだろう。

 景任の没後、信長は織田信広らを岩村城に遣わして制圧した。信長は五男・御坊丸(のちの織田勝長)を養子として送り込み、実権を掌握した。おつやの方は御坊丸の後見として、岩村城に残ったのである。

 同年10月、信玄は信長が岩村城を制圧した一報を聞き、秋山虎繁らに奪還を命じた。強勢な秋山軍を前にして、おつやの方は降参するよりほかがなかった。そして、おつやの方に和睦の条件として出されたのは、虎繁と結婚することだった。

 こうして、おつやの方と虎繁は結ばれたが、御坊丸は人質として甲斐に送られたという。おつやの方をはじめ岩村城の城兵は、武田方に与することになったが、そう長くは続かなかった。

 天正3年(1575)5月の長篠の戦いで織田・徳川連合軍が武田氏を破ると、翌月に岩村城を攻囲した。虎繁は武田勝頼に救援を依頼したが、それは実現しなかった。虎繁はよく粘ったが、同年11月に城兵の助命を条件として降伏したのである。

 その後、捕らえられた虎繁は、妻のおつやの方、家臣らとともに岐阜に連行された。11月26日、虎繁、おつやの方、家臣は、長良川で逆さ磔にされたのである。一説によると、信長はおつやの方を大変憎んでいたといわれている。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書など多数。

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