Yahoo!ニュース

ジャック・スターが明かすアメリカン・ヘヴィ・メタルの秘められた神話【後編】

山崎智之音楽ライター
Jack Starr's Burning Starr / Jack Starr

ジャック・スターズ・バーニング・スターのニュー・アルバム『Souls Of The Innocent』を海外で発表したジャック・スターへのインタビュー、全2回の後編。

前編記事では新作について訊いたが、今回はその40年を超えるキャリアを彩る秘話の数々を語ってもらおう。

Jack Starr's Burning Starr『Souls Of The Innocent』ジャケット(Global Rock Records / 発売中)
Jack Starr's Burning Starr『Souls Of The Innocent』ジャケット(Global Rock Records / 発売中)

<ヘヴィ・メタルを世界に届ける使命に燃えた盟友たちだった>

●1980年代初頭のニューヨークのヘヴィ・メタル・シーンではマノウォー、ライオット、ザ・ロッズ、トゥイステッド・シスターなどが群雄割拠していましたが、ヴァージン・スティールもそんなシーンの一部でしたか?どのように交流していましたか?

みんな同じようなクラブでショーをやって、同じようなレコード店でサイン会やショーケース・ギグをやっていた。同じ志を持つ仲間だったよ。ヴァージン・スティールとザ・ロッズがロングアイランドでモーターヘッドの前座をやったこともあったし、スタテン・アイランドでマノウォーと対バンをしたこともあった。トゥイステッド・シスターのA.J.ペロがいたシティーズも出演していたんだ。バンド同士の対決ということで“ワールド・ウォーIII=第3次世界大戦”と呼ばれたけど、ヘヴィ・メタルを世界に届けるという使命に燃えた盟友たちだった。クラブ規模だったらお客さんが会場に入りきらないぐらい大人気だったんだ。そうして多くのバンドが世界に進出していった。トゥイステッド・シスターがイギリスに進出してみんな喜んだし、ヴァージン・スティールがイギリスの“ミュージック・フォー・ネイションズ”と契約したときも肩をバンバン叩いて「やったな!」と言ってくれた。俺たちは“ミュージック・フォー・ネイションズ”の第1弾アーティストだったんだ。レコードのカタログ番号も“MFN1”だったんだよ。俺のソロ・アルバム『アウト・オブ・ザ・ダークネス』(1984)にライオットやザ・ロッズのメンバーが参加してくれたし、ザ・ロッズのカール・キャネディがプロデュースしたプロジェクト、スラッシャーの『スラッシャー Burning At The Speed Of Light』(1985)には俺も含め、ニューヨークのメタル・コミュニティの面々が集まっている。すごく楽しかったよ。

●あなた達は当時、どんな会場でライヴをやっていましたか?

“ラムール”クラブはブルックリンやクイーンズ、ロングアイランドにあって、ヘヴィ・メタルやパンクの若手バンドに出演の機会を与えてくれた。ロングアイランドには“サンダンス”というクラブもあって、ホワイト・ライオンやスキッド・ロウ、エース・フレーリー、L.A.ガンズ、それからザ・ローリング・ストーンズのロニー・ウッドも出ていたよ。ヴァージン・スティールはロングアイランドのホームタウン・ヒーローみたいな扱いで支持を得ていたんだ。“サンダンス”のオーナーだったフランク・カリオラは俺たちのマネージャーを買って出て、3年間ぐらいやっていたよ。1990年にヴァージン・スティールのデヴィッド・ドゥフェイと俺を再合体させて、ベーシストに元フォガットのクレイグ・マグレガーを連れてきたのもフランクだった。

●バーニング・スターの『Defiance』(2009)ではレインボーの「虹をつかもう Catch The Rainbow」をカヴァーしていますが、ザ・ロッズのデヴィッド・フェインステインはロニー・ジェイムズ・ディオのいとこですね。ロニーと面識はありましたか?

残念ながらロニーとは一度も会う機会がなかったんだ。バンドをサポートしてくれる友人でメディア窓口のフィル・サイモンズの家族はニューヨーク州コートランドでロニーの隣に住んでいて、日曜日になると一緒に教会に行ったりしていたそうだ。とてもフレンドリーな人々だったと言っていたよ(注:フィルによると、少年時代にロニーとキャッチボールをしたりしたそうだ。なお彼らの住んでいた通りは現在“ディオ・ウェイ”と命名されている)。俺にとってレインボーやディープ・パープルは原点だし、リッチー・ブラックモアはギター・ヒーローだよ。1981年にヴァージン・スティールを始めるとき、デヴィッド・ドゥフェイのオーディション課題曲はディープ・パープルの「チャイルド・イン・タイム」だった。この曲にはハイトーンのスクリームがあるし、シンガーの力量が求められるからね。

●“シュラプネル・レコーズ”の『U.S. Metal』と“メタル・ブレイド・レコーズ”の『Metal Massacre』は初期アメリカン・ヘヴィ・メタルを確立させたコンピレーション・シリーズといわれ、メタリカ、スレイヤー、ザ・ロッズなどが参加していますが、ヴァージン・スティールは両方に参加していますね。

(『U.S. Metal II』と『Metal Massacre III』に参加)

うん、両方に参加したのは俺たちだけじゃないかな?『U.S. Metal』はアメリカの“ギター・プレイヤー”誌にマイク・ヴァーニーがコラム記事を寄稿していて、そこに“新人ギタリストのデモ・テープ募集”と書いてあったんだ。それで「Children Of The Storm」のテープを送ったら、数週間後にマイクから電話がかかってきた。彼は気に入ってくれて、自分が企画する『U.S. Metal』に参加することになったんだ。バンドのキャリアにとって大きなプラスになったよ。俺たちは無名バンドだったけど、ライヴのブッキングなどでハクが付いたからね。「このアルバムに参加しています!」と営業に使えたんだ。ファースト・アルバムを出したときも“『U.S. Metal』でおなじみの...”というキャッチフレーズを使うことが出来た。『Metal Massacre』ではバンドの別の側面をアピールしたかったんだ。俺たちはディープ・パープルやアイアン・メイデンも好きだったけど、モーターヘッドなどからも影響を受けていた。『Metal Massacre』には当時としてはエクストリームなバンドが参加していたし、そういったサウンドを好きなメタル・ファンにヴァージン・スティールを知ってもらうことが出来たんだ。

●1980年代にマイク・ヴァーニーはイングヴェイ・マルムスティーンやトニー・マカパイン、ポール・ギルバートなどを“シュラプネル・レコーズ”からデビューさせて、超絶テクニカル・ギタリストの一大潮流を創り上げますが、そんな新世代のギタリスト達を脅威に感じましたか?

いや、感じなかったな。ヴァージン・スティールはそういうバンドではなかったし、俺はそういうギタリストではなかった。リッチー・ブラックモアやマイケル・シェンカーのようなタイプが好きだったんだ。でも初めてイングヴェイを聴いたときは衝撃だったね。『マーチング・アウト』や『トリロジー』は本当に凄いと思った。ただ、彼と同じことをやろうとは考えなかったよ。俺には俺のスタイルがあるし、それを追求したんだ。

Virgin Steele early 1980s / courtesy of Jack Starr
Virgin Steele early 1980s / courtesy of Jack Starr

The press conference of Jack's departure from Virgin Steele 1984 / courtesy of Jack Starr
The press conference of Jack's departure from Virgin Steele 1984 / courtesy of Jack Starr

<『アウト・オブ・ザ・ダークネス』のラインアップは最高だった>

●1984年、ヴァージン・スティールを脱退して作ったソロ・アルバム『アウト・オブ・ザ・ダークネス』にはライオットのレット・フォレスター、ザ・ロッズのカール・キャネディとゲイリー・ボードネロという強力な面々が集結しましたが、正式なバンドとして始動させることは出来なかったでしょうか?

あのアルバムのラインアップは確かに最高だったし、みんな気が合う仲間だったから、良いバンドになっていただろうね。ただ、既にそれぞれのバンドやマネージャーがいたし、それは現実的ではなかった。もの凄い金があれば解決出来たんだろうけど、そういう訳ではなかったんだ。

●『アウト・オブ・ザ・ダークネス』には袂を分かったヴァージン・スティールのデヴィッド・ドゥフェイがノー・クレジットで参加したそうですが、それは脱退前に録ったものですか?

いや、辞めてからだよ。俺がヴァージン・スティールを脱退したとき、確かに後味は良くなかったけど、決して決裂したわけではなかったんだ。デヴィッドの名前がクレジットされていないのは、単純にデザイン上のミスだよ。次にリイシューするときにはちゃんとクレジットするようにする。

●『アウト・オブ・ザ・ダークネス』には元レインボーのドラマーだったゲイリー・ドリスコルがゲスト参加していますが、彼との関係はどんなものでしたか?

ゲイリーはカール・キャネディに紹介してもらったんだ。俺はレインボーのファースト・アルバム(1975)のファンだったし、彼のドラミングには個性があったから、一緒にやれて光栄だったよ。カールのスタイルはジョン・ボーナムに通じるヘヴィなものだった一方で、ゲイリーはよりタメの効いたプレイをする人だった。それで「オディール」で叩いてもらったんだ。彼が年上、しかも元レインボーということで緊張して「ミスター・ドリスコル、お会い出来て光栄です」と挨拶したら、「おいおい、ゲイリーでいいよ」と笑っていた。すぐに打ち解けて、友達になったよ。「君のギター・プレイが好きだし、アルバムに参加出来て名誉に思っている」と言ってくれた。

●ゲイリーが1987年に殺害されたのは、どんな事情があったのでしょうか?

マスコミで報じられたこと以外は知らないんだ。ドラッグ関連だとも言われているけど...犯人たちが敵対するドラッグ密売グループのメンバーに制裁を加えようとして、間違ってゲイリーの家に押し入って彼を殺害したという説もある。知人から聞いた話で、どこまで事実かは判らないけどね。俺が話した印象では、ゲイリーがドラッグ密売組織に関わっているようには見えなかったよ。音楽を愛する、寛大な人だった。事件は今でも未解決なんだ。彼の魂が安らぎを得ることを祈っているよ。レット・フォレスターも若くして亡くなったけど(注:1994年にカージャックで撃たれた)、アメリカの社会には暴力が溢れているんだ。悲しいことだよ。

●ゲイリー・ドリスコルは1980年代前半にバイブル・ブラックというバンドをやっていましたが、交流はありましたか?

ライヴを数回見たことがあった。ミュージカル『ジーザス・クライスト・スーパースター』でイエス・キリストを演じたジェフ・フェンホルトがヴォーカルだったよ。ただ、直接の交流はなかった。ゲイリーとは顔を合わせると「よお!」と挨拶していたけど、その程度だったよ。バイブル・ブラックはすごく良いバンドだったけど、ビジネス面のサポートを得ることが出来なくて解散したんだ。

Carl Canedy, Jack Starr, Gary Driscoll and Garry Bordonaro 1984 / courtesy of Jack Starr
Carl Canedy, Jack Starr, Gary Driscoll and Garry Bordonaro 1984 / courtesy of Jack Starr

Jack Starr and Rhett Forester 1984 / courtesy of Jack Starr
Jack Starr and Rhett Forester 1984 / courtesy of Jack Starr

<メタリカとは一種の連帯感がある>

●ジャック・スターズ・バーニング・スターでヘヴィ・メタルを貫く一方で、『Soon Day Will Come』(2000)でサンタナばりのラテン・ロック、ジャック・スター・ブルース・バンド名義の『Take It To The Bank』(2008)でブルース・ロック路線を取っていますが、それらはあなたのキャリアでどんな位置を占めますか?

ミュージシャンを長く続けるには、常に新鮮なフィーリングを持っている必要がある。たまに異なったスタイルの音楽をやってみることで、自分の感性を磨くことが出来るんだ。俺は子供の頃から、さまざまな音楽を聴いて育った。母親がトルコ生まれで、彼女が2歳のときにフランスに移住したから、俺自身も両国の文化に触れてきたんだよ。ブルースはギターを弾くようになって間もなくB.B.キングを聴いて、そのトーンの説得力に魅了された。それから雑誌に載っていたエリック・クラプトンのインタビュー記事を読んで、彼がフレディ・キングから影響を受けたと知ったんだ。そんな頃、スティーヴィ・レイ・ヴォーンが登場して、彼経由でアルバート・キングも聴くようになった。“3大キング”を聴くことで、ギタリストとして多くのことを学んだよ。イギリスのギタリストからも影響を受けた。テン・イヤーズ・アフターのアルヴィン・リーとかね。あるとき俺が友人と楽器店にいたら、アルヴィンが客として来たことがあった。声をかけたらとても良い人で、しばらく話して、その晩のショーのチケットをくれたよ。

●あなたの最初のバンド、シンシア・フィーヴァーの名前はアメリカン・ハード・ロック・バンド、ブーメランの曲「Cynthia Fever」から取ったそうですが、彼らと直接の交流はありましたか?

ブーメランのギタリストはリッキー・ラミリスという俺の親しい友人で、アルバム『Boomerang』(1971)を作ったときまだ15歳だったんだ。素晴らしい才能を持ったギタリストで、その時点で、既にジェフ・ベックに迫るほどの腕前だった。ニューヨークのクラブでジミ・ヘンドリックスとジャムをしたこともあったし、“ローリング・ストーン”誌で“ニール・ショーンと並ぶ天才少年ギタリスト”と記事になったこともあったんだ。彼はニューヨーク・シティ在住で、バンドがリハーサルするロングアイランドまで来ていたから、俺の実家に何度も泊めてあげたよ。一緒にギターを弾いて、いろんなフレーズを教えてもらった。「Cynthia Fever」「Juke It」「The Peddler」とか、ブーメランの曲をジャムしたものだ。

●リッキー・ラミリスはその後どうなったのですか?

リッキーはその後も活動を続けて、ストライカーというバンドで、“アリスタ”レーベルからアルバムを出したよ(『Striker』1978年)。ただ、おそらくレコード会社からコマーシャルな音楽性を求められて、売れセン狙いの作品になってしまった。彼のギターの本領が発揮されていなかったんだ。彼は4年ぐらい前に亡くなってしまったけど、もっと評価されるべきギタリストだったよ。ブーメランはクールなバンドだった。その後、俺はブーメランのドラマーだったジミー・ガルーチとバンドを結成したんだ。彼はワトキンス・グレンのレース場での自動車事故で亡くなってしまったけどね。シンガーでキーボード奏者のマーク・スタイン(元ヴァニラ・ファッジ)とは知り合う機会がなかったよ。

●1970年代の地元のハード・ロック・バンドで、その他に気に入っていたのは?

サー・ロード・バルティモアは俺が最も影響を受けたヘヴィ・メタル・バンドだった。それとプラム・ネリーというバンドがすごく良かったね。プログレッシヴ・テイストのあるバンドで、『Deceptive Lines』(1971)というアルバム1枚で解散したんだ。それより遡るけど、1960年代後半にハード・ロックやヘヴィ・メタルの確立に重要な役割を果たしたのがヴァニラ・ファッジだった。ディープ・パープルだって彼らを手本にしていたぐらいだからね。彼らはロングアイランドのすぐ南、ロングビーチ出身なんだ。ヴィンス・マーテルはギタリストとして過小評価されていると思う。「ユー・キープ・ミー・ハンギン・オン」のヴァースの後ろで弾いているフィルっぽいフレーズは素晴らしいよ。

●ヴァニラ・ファッジとの接点はありましたか?

バンドと直接の繋がりはなかったけど、彼らの事務所“ブレイクアウト・マネージメント”とは知り合いだった。レッド・ツェッペリンやジェフ・ベックの北米ツアーをオーガナイズしたり、いろんな功績があった事務所で、俺も16歳ぐらいの頃、彼らが経営する“アクション・ハウス”という会場でのカクタス公演のリハーサルを見せてもらったりした。サー・ロード・バルティモアやMC5のショーも見せてもらったっけな。自分のバンド、シンシア・フィーヴァーを結成してから、ソフト・ホワイト・アンダーベリーというバンドの前座を務めたこともあった。彼らはブルー・オイスター・カルトと改名して世界的な成功を収めたんだ。

●当時のブルー・オイスター・カルトはどんなバンドでしたか?

まだ半分オリジナル曲、半分カヴァー曲をプレイしていたよ。「ワイルドでいこう」「ロードハウス・ブルース」「胸いっぱいの愛を」とかね。楽屋でギタリストのバック・ダーマとしばらく話して、「胸いっぱいの愛を」のギター・ソロの弾き方を教えてもらった。だから今でも俺があの曲を弾くときはレッド・ツェッペリンのオリジナルではなく、バック・ダーマ流で弾いているんだ(笑)。

●それは貴重な経験ですね!

そうだね。アルヴィン・リーもバック・ダーマも十代の若僧だった俺に親切にいろいろ教えてくれた。だから俺も若い子に教えを請われたら手を差し伸べるようにしているんだ。俺の息子はスウェーデンのハマーフォールというバンドのファンで、ファンメールを送ったことがある。そうしたらメンバーから「君の名字はスターだけど、まさかジャック・スターと関係あるの?大ファンなんだ!」と返事が来た。一気に息子の尊敬を勝ち得た瞬間だったよ(笑)。比較的最近、ラプソディというバンドのCDを買ったら、ブックレットでヴァージン・スティールが感謝されていた。1984年にフランスでやったフェスティバル(“ブレイキング・サウンド・フェスティバル”)に出演したとき、今ほどスーパースターではなかった頃のメタリカも一緒だったんだ。俺たちの楽屋に来て、「『Children Of The Storm』は最高だね!」と言ってくれた。彼らも『Metal Massacre』に曲を提供していたし、一種の連帯感があるんだよ。

●1970年代前半のニューヨークではパンク・ロックが勃興しましたが、接点はありましたか?

リハーサル・スタジオでラモーンズと一緒になったことがある。ジョーイ・ラモーンと1時間ぐらい話して、楽しかったよ。彼はヘヴィ・メタルも好きだと言っていたし、とてもクールな人だった。ラモーンズはライヴを見たこともある。彼らのエネルギーと、シンプルなサウンドが気に入っていたよ。ブロンディも好きだったな。

●流血ハードコア・パンク・バンド、アンチシーンのアルバム『Eat More Possum』(1994)にジャック・スターという人物がゲスト参加していますが、それはあなたですか?

...ん?いや、参加していないよ?アンチシーンというハードコア・バンドがいるのは知っているけど、まったく面識がない。どこかに同姓同名の人がいるのかもね。

(注:アンチシーンのジェフ・クレイトンに確認したところ、1950〜60年代にテキサス州ダラスで活動した同名別人のロカビリー・シンガーとのこと。彼の音源を集めた『Born Petrified』で聴くことが出来る)

Jack Starr  circa 1987 / courtesy of Jack Starr
Jack Starr circa 1987 / courtesy of Jack Starr

<日本でバーニング・スターとヴァージン・スティールのダブル・ヘッドライナー・ツアーをやりたい>

●レインボーの『虹を翔る覇者 Rising』やKISS、マノウォーのジャケット・アートワークで知られ、バーニング・スターの『Defiance』(2009)『Land Of The Dead』(2011)『Stand Your Ground』(2017)のジャケットも描いているケン・ケリーが2022年6月3日に亡くなりました。彼とはどんな思い出がありますか?

ケンの自宅に行ったことがあるし、何度も電話で話したり、メールのやり取りをしたよ。偉大なアーティストであるのと同時に、親しみやすい人だった。戦士や半裸の美女のファンタジー・ワールドと現実世界のロングアイランド郊外という、ふたつの世界に生きているようだったんだ。彼のアートワークは俺たちの世代に勇気を与え、あらゆる障壁に立ち向かわせるものだった。勝ち目がなくとも信念をもって、決して諦めないことを教えてくれた。俺は音楽を通して、リスナーに同じ勇気を与えたいと考えているんだ。マノウォーもケンのアートワークを使ってきたけど、俺と同じ想いを持っているだろう。彼らは決して大ヒット・アルバムを出したわけではない。それでも闘いを続け、ファンから支持を得てきたんだ。ケンが亡くなったのは残念だけど、知り合うことが出来て本当に良かったよ。

●バーニング・スターの新作を発表して、充実した活動をしている状況下ではありますが、デヴィッド・ドゥフェイと再合体して初代ヴァージン・スティールを復活させる可能性はあるでしょうか?

初代ヴァージン・スティールの再結成は今のところ考えられないな。俺が脱退したのは40年近く前だし、それからデヴィッドも俺も別々の道を歩んできた。美しい思い出のままにしておくのがベストだよ。デヴィッドとはずっと話していないけど、会えば普通に話せるよ。何も問題はない。彼らとバーニング・スターが一緒にツアーをやって、アンコールで初期の曲をプレイするのは面白いんじゃないかな。日本でダブル・ヘッドライナー・ツアーを出来たら最高だよ。

音楽ライター

1970年、東京生まれの音楽ライター。ベルギー、オランダ、チェコスロバキア(当時)、イギリスで育つ。早稲田大学政治経済学部政治学科卒業後、一般企業勤務を経て、1994年に音楽ライターに。ミュージシャンを中心に1,300以上のインタビューを行い、雑誌や書籍、CDライナーノーツなどで執筆活動を行う。『ロックで学ぶ世界史』『ダークサイド・オブ・ロック』『激重轟音メタル・ディスク・ガイド』『ロック・ムービー・クロニクル』などを総監修・執筆。実用英検1級、TOEIC945点取得。

山崎智之の最近の記事