【深掘り「どうする家康」】上之郷城の落城に貢献した忍者の知られざる実像
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大河ドラマ「どうする家康」では、松平元康が見事に上之郷城を落とした。ところで、上之郷城の落城に貢献した忍者とは何者なのか、その点を深掘りすることにしよう。
忍者は乱波(らっぱ)、素波(すっぱ)、草、軒猿(のきざる)などと呼ばれたが、戦国時代には「忍び」、「忍びの者」と称されるのが一般的だった(以下、「忍者」で統一)。忍者は行商人などに変装して諜報活動を行ったり、城に忍び込んで情報の収集を行った。
忍者の役割は敵情を探る諜報活動に加えて、ゲリラ的に敵陣や城に夜討ちや放火を仕掛けることがあった。上之郷城(愛知県蒲郡市)は甲賀衆の忍者の活躍によって、落城したといわれている。
元亀3年(1572)12月、甲斐武田氏は、遠江二俣城(静岡県浜松市)の守備を担当する諸将に書状を送った(「友野文書」)。「忍び(忍者)には十分に注意するよう、配下の者に申し付けること」という指示だったので、忍者を警戒していた事情がわかる。
天正10年(1582)頃、小田原北条氏の一族・北条氏邦は、配下の吉田新左衛門に書状を送った(「諸州古文書」)。その中でも、忍者に対する警戒心が説かれている。
忍者に対する警戒というのは、先述のとおり諜報活動が含まれている。忍者は城内に忍び込んで敵の情報を獲得し、そのためには盗み聞きだけでなく、味方のふりをして情報を集めることもあった。
情報の内容とは、見張りの時間帯、敵が油断していないか、当主と家臣の関係が悪化していないかなどである。敵の弱点を知ることは重要だった。大名当主らは、忍者からもたらされた情報を基にして、以後の作戦を練り上げた。
忍者として有名なのは、甲賀国の地侍衆の甲賀者、伊賀国の地侍衆の伊賀者だった。彼らは合戦になると、諜報活動に従事していた。伊賀者で有名なのが、服部半蔵正成である。半蔵は8千石を知行し、与力30騎、伊賀同心200人を率いていた。
一方、女性忍者の「くノ一」の存在については、いささか疑問が提示されている。ただ、私たちが時代劇で見たような忍者は、特殊な身体能力を持っているが、それは常識的に考えてありえないというべきだろう。