ハリウッド映画でよく見る、家でひたすら夫の身を案じる女たち
トロント映画祭で「ファースト・マン」を見て、またか、と思ってしまった。
史上最年少でオスカー監督賞に輝いたデイミアン・チャゼル監督が、「ラ・ラ・ランド」の次に作った今作のキャストには、最初にライアン・ゴズリング、次にクレア・フォイの名が並ぶ。「ラ・ラ・ランド」に次いで再びチャゼルと組むゴズリングは、言うまでもなく今日最も活躍する俳優のひとり。だが、Netflixの「ザ・クラウン」で映画俳優組合賞(SAG)を2年連続受賞、エミー賞にもノミネートされた上、11月アメリカ公開の話題作「蜘蛛の巣を払う女」(『ドラゴン・タトゥーの女』シリーズ最新作)の主人公リズベット役に抜擢されたフォイも、今、とてもホットな女優だ。
このふたりが共演するとあり、筆者は非常に楽しみにしていた。だが、映画を見ている間、筆者は、妻役のフォイが仕事のために遠くにいる夫(ゴズリング)をひたすら心配してばかりいることが、どうにも気に障ってしかたがなかったのである。
夫、とあっさり言ってしまったが、その人は、1969年に人類史上初めて月を歩いたニール・アームストロングだ。この映画はアームストロングの伝記もので、焦点が彼に当たるのはしかたがないし、実際、妻ジャネットは専業主婦だったのだから、その描かれ方に間違いはない。いや、それが正確なのだろう。それでも、フォイのような才能のある女優が無駄に使われている感がぬぐえなかったのである。
またか、と感じたのは、これまでにもそういう例がいくつもあったからだ。たとえば「エベレスト」にはキーラ・ナイトレイが出るが、役は登山家の主人公(ジェイソン・クラーク)の妻で、遠く離れたニュージーランドで夫を案じ、電話で泣き叫んでいるだけだった。電話の向こうで泣き叫ぶのは、「バーニング・オーシャン」のケイト・ハドソンも同じ。彼女の役は、メキシコ湾原油流出事件に巻き込まれた夫(マーク・ウォルバーグ)の妻だった。そしてウォルバーグがこの映画の直後に作った「パトリオット・ディ」では、ボストンマラソン爆弾テロ事件を目撃した警官(ウォルバーグ)の安否を、妻であるミシェル・モナハンが案じる。モナハンの名前もキャストのかなり上にあるが、出番はごくごくわずか。アメリカ公開前のインタビューに、彼女は来る予定だったのにどたんばで来なくなったのだが、あれだけしか出ていないのに役について語れと言われるのもむしろかわいそうだし、それでいいのではと思ったものだ。
“感情の核”の言い訳も「またか」
これらの女優がプロモーションのために表に出てくる時、必ず使われるのが、“emotional core(感情の核)”である。トロント映画祭の「ファースト・マン」公式記者会見でも、司会者がフォイに向けてこの言葉を使い、「やっぱり出た」と、思わず苦笑してしまった。
それも、間違ってはいない。これらの映画に共通するのは、男たちがいずれも家族思いで、家族がいるからこそ無事に帰ろうとするところ。強さをくれるのは、愛する妻であり、愛するわが子なのだ。そこをしっかり描くことで、主人公の男性に人間味がプラスされ、観客の共感を得られる。
つまり、この妻たちの存在意義は、男性の主人公に深みを加えることなのだ。ならば、演技がちゃんとできる無名女優でもいいのではないかと思うのだが、有名女優がやりたいと言ってくれるのなら、断る理由は何もない。それだけでなく、映画に資金を出してくれる人は喜ぶし、宣伝の上でも話題性ができて、箔が付く。
女優たちにもまた、理由がある。今売れっ子のフォイの場合はただ、やはり売れっ子で注目のチャゼルやゴズリングと仕事をしてみたかったのかもしれないが、よく言われるように、現実問題として、女優には、いい役があまりないのだ。歳を取るとそれはなおさらである。若い頃はラブコメの女王だったハドソンは、「バーニング・オーシャン」のほかに、最近、何に出ただろうか。モナハンも、今年は「ミッション:インポッシブル/フォールアウト」に復活できるという素敵な展開があったものの、このシリーズ4作目に出て以来、ぱっとした映画に恵まれていない。
リース・ウィザスプーンがプロデュースを始めたのは、才能ある女優仲間数人とおしゃべりしていた時に、みんなが目をつけている役の話になったのだが、それがたいしたことがない役で、「私たちにはもっといい役ができるのに、なぜこの役をみんなで争うのだろう」と思ったからだという。そして彼女はHBOのドラマ「ビッグ・リトル・ライズ〜セレブママたちの憂うつ〜」をプロデュースし、自分も、共演者でお友達のニコール・キッドマンも、エミー賞に候補入りさせてみせた。キッドマンは受賞もし、この番組は成功を受けて第2シーズンも製作されている。
感情の核は男でもいい
昨年末に始まった「#TimesUp」運動には、反セクハラや男女の賃金不平等といったことだけでなく、まさにこういった、女性の活躍の場が男性に比べて限られているということも含まれている。この運動を受けて作られたわけではないものの、今年は「オーシャンズ8」がヒットしたし、このトロント映画祭でも、人種もさまざまな女性4人(ヴィオラ・デイヴィス、ミシェル・ロドリゲス、エリザベス・デベッキ、シンシア・エリヴォ)が男たちに負けずに立ち向かう「Widows」が上映され、大きな盛り上がりを見せた。「Widows」でかっこいいのは、断然女たち。男は彼女らが活躍するためのきっかけをくれる、彼女らの役のサポートを務める側だ。さらに、先週アメリカで公開になった「Peppermint」は、「狼よさらば」の女性版とでも言うべき復讐アクションもので、ジェニファー・ガーナーが男たちを打ち負かしている。「#TimesUp」の前から、そういう変化の空気はあったということだろう。
「Peppermint」では、ガーナー演じる主人公ライリーの夫と娘が、“感情の核”だった。そう、“感情の核”は女でなければいけないなどとは、決まっていない。これが男女交互になった時、ようやく“感情の核”は、苦しい正当化の言葉に聞こえなくなる。そのためにも、女性監督や女性脚本家の起用が増えていくことが重要だ。彼女らが、あらゆる年齢の女性が出てくるリアルな話をどんどん書いていけば、女優にとってのおもしろい役が増えていくはずである。
「Widows」のトロント映画祭公式会見で、ディヴィスは、「この映画は、メタファー。この映画の女性たちは、自分たちで自分の命を守らないといけない状況になる。変化は、そういう形で起きるのよ」と語った。ハリウッドの女性たちは、長年、自分のキャリアが男にコントロールされる状況に従う以外になかった。だが、もはやそんな時代ではない。変化は、ゆっくりだが、少しずつ起こり始めているのだ。そのうちきっと、「有名な女優が電話の向こうでただ叫んでいた時代」を、懐かしく振り返る時が来ると信じたい。あるいは、それが男であることが全然不自然ではない時が。