南北朝を合体させたという、足利義満の最大の政治的功績とは
政治家ともなれば、歴史に名を残すような功績を挙げたいと考えているはずだ。しかし、現実には難しく、目立つのは不祥事ばかりである。室町幕府3代将軍の足利義満は、南北朝合一という偉業を成し遂げたので、改めて確認してみよう。
義満の最大の功績は何かといえば、間違いなく南北朝合一をあげることができよう。鎌倉時代後半、天皇家は大覚寺統(のちの南朝)と持明院統(のちの北朝)に分かれていた。
後醍醐天皇が即位して建武政権が成立したが、わずかな期間で崩壊。以後、室町幕府が推戴した北朝、吉野(奈良県吉野町)に逃れた南朝が並存した。南北朝合一とは、文字通り南朝と北朝に分かれていた2つの朝廷を統一したものである。
当時、南朝は吉野に存在したが、十分な軍事力を持たず、もはや崩壊寸前であったという見解がある。しかし、それは極めて皮相なものの見方であり、いまだに南朝は権威を保持していた。たしかに、南朝は十分な軍事力を持っていなかったが、政情の変化によっては、大化けする可能性があった。
このときの南朝が決定的に優位だったのは、三種の神器を持っていたことに尽きる。それは、正統な天皇家としての権威の証でもあった。たとえば、南朝が義満を討伐するために綸旨を出せば、たちまち義満は朝敵になってしまうのである。つまり、南朝がほかの武家勢力に担がれることになれば、大変なことになるのは自明だった。
その危険性をもっとも熟知していたのが、まさしく義満である。そこで、義満はあらゆる手段を使って、南朝の後亀山天皇と和平工作を結ぼうとするが、なかなかうまくいかなかった。しかし、義満は3つの条件を出すことによって、ようやく南北朝合一に漕ぎ着けることになる。
その3つの条件とは何か。南朝に国衙領を与えること、南朝と北朝の系統が交代で皇位を継承することも重要な取り決めだったが、もっとも大切なのは譲国の儀式をもって、三種の神器を後小松天皇に譲渡することである。
つまり、いったん後亀山の南朝を認めたうえで、三種の神器を奪ったのである。この巧妙な詐欺的な手口によって、明徳3年(1392)に三種の神器は北朝の手に渡った。
ところが、南朝と北朝の系統が交代して皇位を継承するという、肝心な約束は反故にされた。義満は最初から約束を守る気持ちがなく、北朝を存続させようとしたのである。