遙かなるウィンブルドン――平地から始まる聖地への戦い
ウィンブルドン本戦開幕を一週間後に控えた今日、会場の近くを歩いていると、何かを探すようにウロウロしている一団に遭遇した。
「ウィンブルドンの予選を見たいんだけれど、どこから入れるか知っている?」
そう問われて、思わず答えに窮してしまう。ウィンブルドン・チャンピオンシップスの予選は、“ウィンブルドン”では行われていないからだ。
グランドスラムの中でもウィンブルドンは唯一、予選会場が本戦のそれとは異なる大会である。もちろん、合理的な理由はある。天然芝のコートを本戦の2週間、最高のコンディションに保全すること――それこそが、大会の第一義だからだ。そこで予選はウィンブルドンから車で20~30分ほど離れた、ローハンプトンという地域で行われる。ちなみに予選会場の“ザ・バンクオブイングランド・スポーツセンター”は、国際テニス協会(ITF)本部ビルのすぐ隣。英国のテニス協会“ローン・テニス・アソシエーション(LTA)”のオフィスも隣接するという、いわばテニス界の中枢とも言えるエリアである。
ところが実際の会場は、そんな仰々しい肩書とは相容れない、なんとも牧歌的な空間だ。言ってしまえば、広い芝生の広場にポールを立ててラインを引き、ネットを張っただけのコートがズラリと並んでいる。観客用のスタンド席はおろか、椅子すらほとんどない野放し状態。ただそこは観客たちも慣れたもので、キャンプ用チェアを持参するのがこの予選の暗黙のルールだ。
そんなうららかな空間に、昨年、ちょっとした事件が起きた。ドーピング禍によりランキングを下げたマリア・シャラポワが、予選からの出場を表明したのだ。スーパースターが来るとなれば、厳格なるウィンブルドンも慌てふためく。テントではあるが大きなメディアセンターが誕生し、テレビ中継用に仮設スタンド付きのコートも設置された。前年まで無料だった観戦料も、昨年から10ポンドに。もっとも大会側は「これらはシャラポワとは無関係で、もっと先から決まっていたことだ」と主張しているが。そして嵐だけを巻き起こし、当のシャラポワはケガを理由に出場を取りやめたのだった。
かくして多少のグレードアップを果たした予選会場ではあるが、選手用ラウンジやジムも、テントや仮設のプレハブというのは変わらない。本戦が行われる“オールイングランド・ローンテニスアンドクロケークラブ”とは甚だしい差だが、それらが“聖地”の価値を規定している要因のひとつとも言える。なにしろ予選出場選手は、本戦の会場に入ることすら許されないのだから……。古今東西「近くて遠い、ウィンブルドン」と謳われる所以であり、その格差こそが選手にモチベーションを与えてきた歴史もある。1990年台に活躍し最高24位に達した神尾米さんは、本戦会場のゲートで文字通りの門前払いを受けた時に「絶対に来年はここに戻ってきてみせる」と奮起し、翌年はランキングでの本戦出場を果たした。このローハンプトンのなだらかな平地が、聖地につながっているのも間違いない事実だ。
昨年の予選では、残念ながら日本勢からは本戦にたどり着く選手はいなかった。その時にローハンプトンで味わった悔しさが、いつの日かの……できることなら、今年のウィンブルドンへと続くことを切に願っている。