松平信康が「虫も殺さぬ優しい子」だったというのは、事実なのか
大河ドラマ「どうする家康」では、設楽原の戦いが描かれていた。一方で、松平信康が出陣したものの、母の瀬名から「虫も殺さぬ優しい子」だったと言われていたが、それは事実なのだろうか。
天正3年(1575)5月21日の設楽原の戦いには、松平信康も徳川軍の一員として出陣していた。当時、信康は17歳の青年だったとはいえ、武士としては一人前である。ただ残念ながら、信康が戦場でどのような活躍を見せたのかは不明である。
ドラマの中の信康は、次々と鉄砲に撃たれ倒れていく武田軍の将兵を見て、いささかトラウマになったようである。そのような信康の姿を見かねたのか、瀬名は「虫も殺さぬ優しい子」だったと述べたのだろう。これは、果たして事実なのだろうか。
ドラマを見ていると、なんとなく信康が臆病だったように思えるが、実際はそうでもなかった。『三河物語』によると、信康は乗馬に優れ、父と同じく鷹狩りが好きだった。口を開くと合戦の話ばかりしていたというので、武士らしい武士だった。
実際の戦いにおいても武勇伝は多く、天正3年(1575)に家康が小山城を攻撃し撤退に転じた際、信康は殿(しんがり)を見事に務めたという。また、従者を連れて武田勝頼の本陣を偵察し、家康に攻撃すべきだと献言した逸話もある。
とはいえ、こうした信康の姿は、さほど良質な史料に書かれているとはいえず、すべてが正しいとは言い難い。あくまでエピソードの類にすぎないだろう。信康の性格なりを良質な史料で確認するのは、極めて困難である。
一方で、家康は信康を嫌っていたと伝わる。のちのことだが、家康は六男の忠輝を蛇蝎のように嫌っていたという。家康はことあるごとに、「忠輝は幼い頃の信康に似ている」と述べ、気分を害したと言われている。しかし、根拠となる史料は、『野史』や『藩翰譜』といった信頼性の劣るものだ。
結論を言うと、信康が「虫も殺さぬ優しい子」だったかどうかは不明である。ただし、信康は家康に従って、幾多の戦場に出陣したのだから、当時の平均的な武将だったのではないかと想像する。後世に成った史料は脚色があるので、注意が必要である。