桶狭間の戦いは、織田信長の奇襲攻撃だったのか? それとも正面攻撃なのか。深まる謎
過日の報道によると、1月20日に大江天満神社(福岡県みやま市)の舞堂で「幸若舞」(国重要無形民俗文化財)が奉納された。こちら。
「幸若舞」といえば、織田信長である。桶狭間の戦い前、信長は幸若舞『敦盛』を舞ったあと、出陣準備を行ったという。その桶狭間合戦については、昔から信長が奇襲攻撃を仕掛けたのか、あるいは正面攻撃だったのか議論がある。そのほかの説も含めて考えてみよう。
永禄3年(1560)5月19日、信長はわずか2・3千の寡兵でもって、桶狭間の戦いで今川義元が率いる大軍に勝利した。信長はわずかな兵で、今川氏の陣に背後から奇襲攻撃を仕掛け、勝利したというのが通説である。
しかし、有名な「迂回奇襲説」には、異論が提示されている。そもそも、義元の率いた2~4万という軍勢の数は、所領の規模を勘案すると、あまりに多すぎて疑問が残る。実際に義元の本陣を守備していた兵は、4・5千といわれており、それくらいが妥当と考えられる。
「迂回奇襲説」の根拠史料は小瀬甫庵『信長記』であり、明治期の日本陸軍参謀本部編『日本戦史・桶狭間役』で広まった。しかし、17世紀初頭に成立した『信長記』は史料の性質に難があり、歴史の史料としては使えない。
同署は儒教の影響を強く受けており、内容に脚色が多い。甫庵が『信長記』を執筆した動機は、仕官だったというので、話を面白くするために創作臭が強くなったのはいたしかたない。
一方の「正面攻撃説」の根拠となる太田牛一の『信長公記』は、客観性を重んじており、一次史料と照らし合わせても正確な記事が多い。牛一は信長に仕えていたので、そのときの記録を残しており、のちに整理して執筆したという。記憶力も良かったといわれている。
ただし、牛一が現代の従軍記者のように戦場を取材したとは思えないので、実際に出陣した将兵から聞き取って執筆したと考えられる。牛一が桶狭間の戦いの場面を執筆する際、そうした取材をもとに再構成したのなら、必ずしも正確とはいえない部分が出てくるのは止むを得ない。
「迂回奇襲説」や「正面攻撃説」のほか、「乱取り説」がある。『甲陽軍鑑』によると、織田軍は今川軍が乱取り(将兵による掠奪行為)に夢中になった隙を狙って、義元を討ったという説がある。義元らは油断していたのか、酒盛りをしていたという。
かつて、『甲陽軍鑑』は歴史史料として難があるとされてきたが、今では書誌学的研究が進み、用いられることもある。ただし、『甲陽軍鑑』は軍学書としての性格が強く、桶狭間の戦いの記述は『信長公記』の記述との相違点が多いので、そのまま鵜呑みにできないと指摘されている。
桶狭間の戦いに限らず、戦国時代の合戦の経過を具体的に復元するのは、極めて困難である。むろん、一次史料に書かれていることはほとんどなく、二次史料に頼らざるを得ないのが現状だ。
しかも、個人が戦闘のすべてを把握することは現実的に不可能であり、記述の際は主観や創作が混じることもある。そのような点を考慮すれば、桶狭間の戦いについても、詳細は不明と言わざるを得ない面もあろう。
参考文献一覧
藤本正行『信長の戦争 『信長公記』に見る戦国軍事学』(講談社学術文庫、2003年)
黒田日出男『甲陽軍鑑』の史料論 武田信玄の国家構想』(校倉書房、2015年)