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【深読み「鎌倉殿の13人」】源義経以外にもいた。源頼朝を助けようと奮闘した3人の弟

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
源頼朝の弟といえば、義経だけではなかった。(提供:アフロ)

 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」10回目では、菅田将暉さんが演じる源義経が目立っていた。しかし、義経以外にも3人の弟が奮闘していたので、深く掘り下げてみよう。

■源範頼(?~1193)

 源範頼は、源義朝の6男として誕生した。母は、遠江国池田宿(静岡県磐田市)の遊女だった。

 範頼は、蒲御厨(同浜松市)で誕生したので、蒲冠者(がば〔ま〕のかんじゃ)と呼ばれた。のちに、京都で高倉季範に育てられたので、その一字を取って「範頼」と名乗ったという。

 治承4年(1180)8月、源頼朝が伊豆国で挙兵すると、範頼も出陣要請に応じた。しかし、範頼がただちに伊豆国の頼朝のもとに馳せ参じたという記録はない。

 当時、範頼は遠江国にいたと考えられるので、同国に侵攻した甲斐源氏の安田義定と協力していたのではないかと推測されている。

 ところで、範頼の人物像はさまざまである。『吾妻鏡』には、範頼が好戦的で御家人とトラブルになったこともあると記している。一方、『源平盛衰記』では、「無能」あるいは「凡将」との烙印が押されている。

 とはいえ、頼朝から平家追討を任されたのだから、後者については疑問が残る。

■阿野全成(1153~1203)

 阿野全成は、源義朝の7男として誕生した。母は常盤御前で、義経と同じである。平治元年(1159)の平治の乱で義朝が敗死すると、出家して醍醐寺(京都市伏見区)に入った。

 治承4年(1180)4月、以仁王が「打倒平氏」の令旨を各地の武士に送ると、全成は修行僧に身をやつし、醍醐寺を密かに抜け出すと、そのまま東国へと下った。

 同年8月、全成は東下の途中で頼朝方の佐々木氏兄弟と会い、その所領の相模国渋谷荘(神奈川県大和市)でしばらく潜伏生活を送った。

 同年10月になって、全成は下総国鷺沼(千葉県習志野市)の宿所で、念願の頼朝と対面をした。頼朝との対面は、その兄弟としては初めてだった。頼朝は初めて全成に対面したとき、歓喜の涙を流したという。

 頼朝は全成に対して、武蔵国長尾寺(神奈川県川崎市:現妙楽寺)を与えた。その後、全成は阿波局(北条政子の妹)を妻とした。阿波局は、のちに千幡(頼朝の次男:実朝)の乳母となったのである。

■義円(1155~1181)

 義円は、源義朝の8男として誕生した。母は常盤御前で、全成や義経と同じである。平治の乱後、義円は園城寺(滋賀県大津市)で出家し、僧侶となった。

 義円は、園城寺で円恵法親王(後白河天皇の子)の坊官として仕えていた。義円という名は、義朝の「義」の字と円恵法親王の「円」の字を組み合わせたと考えられる。

 治承4年(1180)8月、源頼朝が伊豆国で挙兵した際、義円は全成や義経のように、頼朝と対面を果たしていないようだ。翌年、義円は墨俣川の戦いで戦死するが、その点は追って解説することにしよう。

■むすび

 頼朝の兄弟と言えば、すぐに義経を思い出すが、決して彼だけではなかった。ここに挙げた兄弟は、頼朝の手足となって奮闘した。彼らの活躍ぶりは、追々取り上げることにしよう。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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