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【深掘り「鎌倉殿の13人」】源頼家の遺児・公暁は将軍候補の1人だったのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
公暁が別当を務めた鶴岡八幡宮。(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、実子のなかった源実朝の後継者問題が焦点となっていた。その候補の1人が公暁だったが、その辺りを詳しく掘り下げてみよう。

■公暁とは

 正治2年(1200)、公暁が源頼家の子として誕生した。源頼朝が没した翌年のことである。

 母は賀茂重長の娘だったといわれているが、比企能員の娘(若狭局)、三浦義澄の娘という説もある。公暁の幼名は善哉という。有力御家人の三浦義村が乳父を務めた。

 建仁3年(1203)9月、比企能員の乱が勃発した。結果、頼家は将軍の座を追われ、伊豆の修禅寺に幽閉された。

 嫡男の一幡は、乱のときに焼死したという(異説もある)。翌年、頼家は殺害され、公暁はただ1人残されたのである。

■出家した公暁

 元久2年(1205)、北条政子の計らいで、公暁は鶴岡八幡宮寺別当の尊暁の弟子となった。建永元年(1206)、公暁は3代将軍の実朝(頼家の弟)の猶子となった。政子の配慮だろう。

 建暦元年(1211)9月、公暁は出家して、受戒すべく上洛した。『鶴岡八幡宮寺社務職次第』によると、公暁は「俗に悪別当」と号されたようである。荒くれ者だったのだろうか。こうして公暁は、仏門で修行に励んだのである。

 建保5年(1217)、公暁は政子の命により、鶴岡八幡宮寺の別当に就任した。この時点において、公暁には将軍になる芽がなくなったの見るのが普通だろう。

■まとめ

 ところで、実朝には実子がいなかった。理由については、もはや探るべくもない。そこで浮上したのが後継者問題である。幕府は朝廷から迎えようと検討していた(親王将軍)。

 一説によると、公暁はこのままでは将軍になれないと将来を悲観し、実朝暗殺の凶行に及んだという。また、公暁が実朝を討ったのは、あくまで親(頼家)の仇であり、黒幕がいたとも指摘されている。

 普通に考えるならば、公暁は出家した時点で将軍候補から外れたとみるべきだろうが、実朝の猶子にしたのはスペアという線を捨て切れなかったのだろうか。朝廷との交渉が決裂する可能性もあったからだ。

 とはいえ、公暁が将軍になることを望んだのか、真相は闇の中といえるだろう。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書など多数。

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