【その後の鎌倉殿の13人】北条泰時が源頼朝の眠る墳墓堂に立ち入らなかった訳
貞応2年(1233)1月13日。鎌倉幕府の第3代執権・北条泰時は、源頼朝の墳墓堂(法華堂)にお参りしました。鎌倉幕府を開いた頼朝が亡くなったのは、建久10年(1199)1月13日。1月13日は、頼朝の命日だったのです。頼朝の法華堂に参った泰時ですが、お堂の中には入らず、堂下で敷き皮をひいて座っていました。そしてお経を唱えたのです。法華堂の別当(長官)尊範が側に来て「どうぞ、お堂にお上りください」と泰時に頻りに勧めたようです。しかし、泰時はこれを固辞しました。法華堂の始まりは、頼朝が聖観音像を本尊として建てた持仏堂(念持仏を安置する堂)でした。泰時は別当の勧めに対し、次のように言いました。「(頼朝公)在世中も容易くは堂上には上がれませんでした。亡くなられた今、どうしてその礼を忘れることができましょうか」と。泰時はとうとうお堂には上がらず「庭上」にてお経を唱え、帰っていったのでした。
泰時の頼朝への崇敬が分かる逸話です。生前の頼朝は泰時を大変可愛がっていました。『吾妻鏡』(鎌倉時代後期に編纂された歴史書)には、年少の泰時に下馬の礼をとらなかったとして、御家人の多賀重行の所領を没収した逸話が収録されています。また泰時の元服の際、頼朝はその烏帽子親となりました。その際、泰時に与えられた名は「頼時」でした。頼朝から一字を頂戴したのです。また、頼朝の命により、泰時は三浦義村の娘と結婚することになります。自ら(泰時)の前半生のレールを引いてくれた頼朝。その頼朝に泰時は恩義を感じていたのでしょう。何より、尊敬していたのでしょう。