官報は創刊号から気象情報、使えない天気予報も掲載
官報は、国が発行する唯一の法令公布の機関誌として、また、国の公報誌、国民の公報誌としての役割を持っています。
官報の創刊は、明治16年(1883)7月2日です。7月1日が日曜日であったため、2日(月曜日)の創刊です。
官報の前身
官報の前身は、明治政府が戊申戦争中の慶応4年(1868年)2月23日に新政府が京都で創刊した太政官日誌です。
太政官日誌は、明治10年1月22日で中止となります。
その後、参議の大隈重信が法令公布日誌の創刊が検討されましたが、開拓使官有物払下事件をめぐる閣内対立で日の目をみていません。
官報の創刊のきっかけは、明治15年3月に、参議の山形有朋が太政大臣三条実美に提出した「官報発行の建議書」です。新聞などがやたらに政府を攻め、朝廷を誹謗するのに対して、
「政府ハ宜シク其主義ト趣旨トヲ発露シテ広ク之ヲ衆ニ示シ 人ヲシテ準ヲ望テ正路ヲ取ル所アラシムヘシ」というものです。
これと、法令公布日誌との折衷案が具体化されたのが官報です。
現在も使用している官報の題字は、太政大臣三条実美がその創刊を祝して、自ら筆をとったものと伝えられています。
創刊号から気象情報
この官報には、最初から気象情報が掲載されています。
明治16年(1883)7月2日付けの創刊号には、気象という項目があり、まず、東京の芝にあった海軍観象台が「海軍観象台報告」、次いで、気象庁の前身である内務省地理局が、「地理局報告」として全国の気象概況及び京都時午前6時における全国22ヶ所の気圧、風向、風力、日雨量、温度、天気を掲載しています。
翌年6月1日から内務省地理局で天気予報が発表となると、さっそく官報にも掲載されます。
その時の官報では、海軍観象台報告は、地理局報告の後になっています。
明治17年6月3日号の官報では、気象という項目の最初が地理局報告で、6月1日午後9時、2日午前6時、午後2時の全国気象概況、全国22ヶ所の気圧、風向、風力、日雨量、温度、天気に加えて、6月1日午後9時、2日午前6時、午後2時に発表した3つの天気予報が掲載されています。
始まったばかりの天気予報が、官報に掲載されたわけですが、3つの天気予報のうち、一番新しい天気予報でも官報の発行時には予報期間が過ぎて使えないものです。最初は、天気予報はこのように当たっているとPRを目的としたのかもしれません。
黎明期の気象業務は海軍と内務省の二本立て
明治初期の気象業務は、勝海舟が海軍卿となり、船舶からの気象観測データを集める通達を出したり、東京の麻布に海軍観象台を作った明治7年(1874年)から始まっています。
勝海舟の指導のもと、一切外国人に頼らず、自力で外国の知識を取捨選択して学んで改良したところからの始まり、発展させています。
これに対し、海軍の気象業務開始から一年遅れの明治8年、荒井郁之助が内務省で、ジョイネルやクニッピングといったお雇い外国人の助けを借りて気象業務を発展させています。
つまり、黎明期の気象業務は、違った方法で似た業務が始まり、共に発展したのです。
その反映が、官報の2つの記載です。
しかし、海軍の業務が広がったことから、組織改革が行われ、海軍観象台の気象業務等は、内務省の気象台に移管となっています。
そして、内務省の気象台が気象庁へと発展してゆきます。