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「持続可能な開発目標」(SDGs)の国際政治-「貧困削減」から「貧困撲滅」への転換が意味するもの

六辻彰二国際政治学者
(写真:ロイター/アフロ)

9月25日〜27日、国連で開催された「持続可能な開発サミット」では、貧困や格差の是正に向けて、国連加盟国は「持続可能な開発のための2030アジェンダ」を満場一致で採択しました。そこには、2030年までに世界全体で取り組む目標と達成すべきターゲットを示した「持続可能な開発目標」(SDGs)が含まれます。

この20年間、中国、インド、ブラジルなどの新興国をはじめ、多くの開発途上国で経済が成長してきた一方で、所得格差はむしろ増加し、好景気がもたらすインフレが低所得層の生活悪化に拍車をかけています。そして、それはテロ、難民、環境破壊といった問題の要因ともなっています。このグローバルな貧困に対応するために、各国の共通目標として設定されたのが、SDGsです。その発表にあたって、パンギムン事務総長は「誰一人置き去りにしない」ことを強調しました。

SDGsには、既に国内でも多くの議論がありますが、その多くはSDGsの有効性等に関するものです。しかし、開発協力もまた、イデオロギー対立や国際政治と無縁ではありません。以下では、SDGs採択をめぐる、大枠の国際関係の変化をみていきます。

SDGsとは

SDGsには17の目標(ゴール)と、そのもとに合計169のターゲットが示されています。例えば、ゴール1は「貧困をなくす」で、それを実現するために「2030年までに1日1.25ドル未満で生活する極端な貧困層をなくす」(1-1)などのターゲットが設けられています。SDGsのカバーする領域は、極度の貧困や飢餓(ゴール2)、保健衛生(ゴール3)、教育(ゴール4)といった、いわば古典的な開発協力の分野だけでなく、ジェンダー平等(ゴール5)、水資源(ゴール6)、インフラ整備(ゴール9)、公正な司法(ゴール16)など多岐に渡ります。

幅広い対象領域を設定することに関して、「野心的だが理想的に過ぎる」という評価もあり得ます。あれもこれもと手を広げ、全部の実現を目指すという意味では、SDGsは理想的かもしれません

その一方で、多くの開発途上国では女性の教育機会や就労機会に制約があり、そのために女性の方が貧困層の多数派を占めます。さらに、不当解雇などの問題が発生しても、多くの貧困層は費用の問題や文字を読めないために書類を作成できないなどの理由で、司法に訴えることが困難です。そのうえ、多くの開発途上国の裁判所では汚職が横行しており、賄賂の多寡が判決を左右することは日常茶飯事で、貧困層が不利な扱いを受けることも珍しくありません。現代の貧困には様々な問題が絡みついており、これらを無視して取り組んでも効果が薄いとするならば、貧困対策にはターゲットの幅を広げることが必要です。この観点からみれば、SDGsは「野心的でありながらも現実を踏まえている」と評することも可能です

しかし、いずれにせよ、SDGsにはもう一つ、全く別の意味で、必ずしも「理想的」と言えない側面があります。それは、SDGsに先立って、2001年から2015年までの目標として設定されていた、そしてつい先頃その期間が終了した、「ミレニアム開発目標」(MDGs)との対比から見て取れることです。

SDGsへのプレリュード-MDGs

2000年の国連ミレニアムサミットで採択されたMDGsは、各国が共有するグローバル・レベルでの開発目標を、初めて打ち出したものです。ここでは「極度の貧困と飢餓の撲滅」(ゴール1)、「普遍的な初等教育の普及」(ゴール2)、「ジェンダー平等の推進と女性の地位向上」(ゴール3)、「乳幼児死亡率の削減」(ゴール4)など8つのゴールと、「2015年までに1日1ドル未満で生活する人口の割合を1990年の水準の半数に減少させる」(1-A)、「2015年までにすべての子どもが男女の区別なく初等教育の全課程を修了できるようにする」(2-A)など21のターゲットが設定されています。

その基本構造はSDGsと同様ですが、両者を比べれば、ターゲットの項目数だけでなく、そのトーンの違いは明らかです。MDGsでは、SDGsと同様に極度の貧困、飢餓、ジェンダー、教育、保健衛生、環境、グッド・ガバナンスなどが重視されていましたが、その一方で、SDGsに含まれる、「包括的で持続可能な経済成長とすべての人々のための雇用と適切な仕事」(ゴール8)や「弾力的なインフラ整備」(ゴール9)といった経済・産業にかかわる事柄や、「国家間の格差の縮小」(ゴール10)や「責任ある消費と生産」など先進国の人々のライフスタイルにかかわる事柄には、ほとんど触れられていませんでした

MDGsは、いわば1990年代に生まれた開発協力のトレンドが凝縮されたもので、その考え方は「貧困削減」(poverty reduction)と呼ばれました。この考え方には、大きく3つの特徴があります。

第一に、貧困層や貧困国への重点的な支援を強調したことです。開発協力において、「貧困」に焦点を絞ることは当たり前のようにみえるかもしれません。しかし、冷戦時代、援助は総じて、「東西陣営が自らの友好国を確保するための外交的手段」という特徴を色濃く備えたものでした。さらに、1990年代までは、開発の内容はほぼ「経済成長」に特化していました。経済が成長すれば、それによってタイムラグはあるものの、やがてその恩恵が多くの人に行き渡るという考え方は、「トリックル・ダウン(滴下)」と呼ばれます。しかし、経済が成長しても、その恩恵が一握りの人々によって独占されることは、珍しくありません。これに鑑みれば、一番条件の悪い人々や国に焦点を当てる「貧困削減」の登場は、開発協力に倫理性や規範性をもたせる意味があったといえます。

第二に、開発協力、特に貧困国向けのものに関しては、返済義務をともなう「貸し付け」ではなく、それがない「無償資金協力」がスタンダードになったことです。1970年代後半から1990年代前半にかけて、現在のギリシャと同様に債務危機に陥ったラテンアメリカ、アフリカの各国では、IMFや世界銀行により規制緩和などを軸とする経済改革を条件に融資が行われました。

ただし、いわゆる新自由主義に基づいた規制緩和−経済成長-財政健全化−債務返済というシナリオは、現地の社会・経済構造を全く無視したものであったために、見事に不発に終わりました。その結果、多くの開発途上国はさらなる債務を抱え込んだだけで、その返済が事実上不可能な水準になった国も珍しくありませんでした。西側先進国やIMF/世銀への債務返済のために、貧困層向けの社会サービスまで削られているという広範な批判が噴出した結果、これらは1990年代の半ばから貧困国の債務棒引きに着手しましたが、それにともない無償資金協力が貧困国向けの開発協力の中心となったのです。

第三に、開発協力の内容として、医療や教育といった基礎的社会サービスが強調されたことです。「経済成長」優先だった冷戦期は、ダム、道路、港湾などのインフラ整備などが開発協力の中心でした。この原型は、第二次世界大戦後、日本や西欧諸国の復興を米国が支援したマーシャル・プランにありました。産業基盤を整備することは、先述の経済成長最優先の開発協力では、当たり前のことでした。しかし、貧困層の生活改善を最優先にする貧困削減では、膨大な予算がかかりがちなインフラ整備(だからこそ無償資金協力ではなく、その多くが融資で行われる)ではなく、貧困層が直接アクセスできる基礎的社会サービスが重視されるようになったのです。このトレンドは2000年のMDGsに先立って、1996年に先進国の集まりである開発援助委員会(DAC)で既に確認されたものです。

基礎的社会サービス重視の思想

基礎的社会サービスそれ自体は、所得向上に必ずしも繋がりません。これが重視されたことは、貧困削減では「低所得」そのものだけが問題にされたわけでなく、さらに「所得向上」が開発の唯一の目標と捉えられていたわけでないことを象徴します。つまり、貧困削減の路線を推し進めた主体の一つであるUNDPの標語、‘Development is freedom’が示すように、「貧困削減」では「個々人が自由になること」が開発の究極目標とされていたといえます。

「貧困削減」路線の定着に大きな影響を及ぼしたのは、アジア人初のノーベル経済学賞受賞者で、インド出身のアマルティア・センの理論と思想でした。それまでの開発経済学では、「成長」に関する理論はあっても、「貧困」に関する理論は稀でした。センはアジアやアフリカの実地調査を重ね、「貧困とは何か」を突き詰めていくなかで、貧困を「潜在能力」(capability)と「権原」(entitlement)の概念から説明しました。

権原とは、「ある個人が支配することのできる一連の選択的な財の集まり」、つまり「ある人が消費を選択することができる財の集まり」です。ひらたく言えば、手元にある、自分のために使えるもの一切が権原といえます。一方、潜在能力とは、「ある人が経済的、社会的、および個人の資質の下で達成することができる、さまざまな『であること』と『すること』を代表する、一連の選択的な機能の集まり」と定義されます。これまたかなり圧縮していえば、個々人が「何をなすか」といえます。

よく用いられる例でいえば、一般的に妊娠している女性は、安全な出産という潜在能力を実現するために、栄養や医療などにおいて、それ以外の人々より多くの権原を必要とします。従来の「所得の向上」を開発の目標とする発想では、権原の拡大が目指されていたといえます。しかし、先の例で言えば、妊婦にとって重要度が高いのは「安全に出産すること」であり、栄養、医療、あるいはそれらのための資金などは、そのための手段に他なりません。この観点からすると、潜在能力と権原を比較した場合、優先されるべきは前者となります。つまり、貧困とは基礎的な潜在能力がはく奪されている状態であり、開発とは潜在能力を充分に発展させることといえます。

個人が自らの夢や可能性に向かって自らの将来を切り開けるための手段として財があるのであって、逆ではありません。これは、「なぜ低所得はいけないか」という、それまで物質的な充足そのものを目的化する立場からほぼ不問に付されていた問いに対して、「それは個々人が自らの生きる道を選び取れるチャンスの幅を狭めるから」という規範的な解答を与えたといえます。

だとすると、経済成長や所得向上は、「個人の可能性の幅を広げる」ための条件ではありますが、それ自体が目標ではなくなります。むしろ、「開発」で重視されるべきは、個々人が自らの潜在能力を発揮しやすい環境を作り出すこととなります。この観点から、1990年代半ば以降の開発協力では、個人の可能性を広げる前提として、教育や医療が重視されるようになったのです。

開発途上国の不満-「選択肢なき選択」

センの貧困理論と思想は、貧困削減の大きな方向性を形作りました。MDGsはその一つの完成型とも呼べるもので、そこでは経済成長や所得向上の向上という、物質的な充足を重視した、いわば規範的に価値中立的な目標ではなく、「個人が自らの一生を選択できる社会の構築」という、すぐれて倫理的な目標設定が顕著でした。

ただし、貧困削減やMDGsには、多くの開発途上国、特にその政府から、必ずしも肯定的に受け取られない要素がありました。それはひとえに、この路線が先進国によって定められた、開発途上国からみて「選択肢なき選択」だったことへの不満と、それによって自らの権能が損なわれることへの危機感によりました。

冷戦終結後の1990年代、ソ連が消滅していたこともあり、西側先進国の開発途上国に対する影響力は、かつてなく強まっていました。西側先進国は冷戦時代、東側に開発途上国が接近することを恐れ、援助はこれらを自らの陣営に繋ぎ止めるための手段でした。そのため、相手国の内政に口を出すことはほとんどなかったのですが、冷戦終結で状況は一変。西側先進国は開発協力の前提として民主化、人権保護、市場経済化などを要求し始めました。これらが「相手のため」であったとしても、相手国の内政に対する関与であることは否定できません

このように、冷戦終結後に高まったその圧倒的な影響力のもとに、西側先進国は貧困削減を主導しました。その一つの完成形であるMDGsは、ドナー(援助する側)だけでなく、レシピエント(援助される側)も同意した目標ですが、当時の開発途上国にとっては、受け入れる以外の選択は、事実上なかったといえます。

西側先進国による開発への関与

いわば「お仕着せ」であっても、開発途上国のニーズに合致していれば、問題ないようにみえます。しかし、そもそもいま「開発途上国」と呼ばれる国のほとんどはかつて、いまの「先進国」の植民地にされ、独立後も長く経済的に支配された歴史があります。そのため、多くの先進国の人々が想像するより、開発途上国では自らも関わる問題が先進国のペースで決められることに根深い反感があります。

そのうえ、多くの開発途上国の政府にとっては、貧困削減やMDGsで強調されなかった経済成長、雇用の確保、インフラ整備などもまた、重要な課題です。例えば、テロが蔓延する中東・北アフリカでは、2000年に83パーセントだった初等教育への就学率が2013年には93パーセントに、同じ時期の平均余命が69歳から72歳に、それぞれ上昇しましたが、その一方で失業率は2000年から2013年にかけて13パーセントから11パーセントに減ったものの、人口増加の影響から、若年失業率(15~24歳)のそれは28パーセントから30パーセントに上昇しました【World Bank, World Development Indicators Database】。教育を受け、健康状態がよい人が増えながらも、仕事が足りず、ひいては格差が解消されにくい状況は、若年層の社会的不満の一因となっているのです。

しかし、先進国の開発協力が大きな影響力をもつ以上、開発途上国政府が自らのニーズを力説することは、事実上不可能です。「貧困削減」路線の定着とともに発達した「セクター・プログラム」は、これに拍車をかけました。

セクター・プログラムとは、一つの援助スタイルです。冷戦時代は、特定の現場での学校、ダム、病院などの建設といった開発協力が中心でした。これはプロジェクト援助と呼ばれます。しかし、プロジェクト援助はドナーごとにバラバラで行われるため、重複など非効率なものになりやすいものです。しかも、プロジェクト援助はレシピエント政府の汚職の温床となりがちですが、戦略的な援助が中心だった冷戦期、ドナーはこれを見て見ぬふりをすることが一般的でした(例えば、東南アジアで「反共の砦」と位置付けられたフィリピンのマルコス政権が、国民の政治参加を抑圧しながら、西側からの援助を私物化していた事例などが有名)。

こういったプロジェクト援助の欠点を克服するため、1990年代に普及したセクター・プログラムは、プロジェクトより高位の政策やプログラムのレベルで、ドナーがレシピエントの開発に関与する手法です。一般的には、ドナーとレシピエントの協議に基づき、医療や教育といったセクターごとの予算配分の決定や政策立案が行われます。その際、同じ国に援助するドナーが集まり、予算を出し合ってプールし、その資金配分をレシピエント政府とともに協議することが珍しくありません。

この手法は、プロジェクト援助と比較してより効率的な予算配分が可能ですが、一方でレシピエント政府の決定にドナーがより深くかかわることにもなります。さらに、そのなかで、ドナーが集まってグループを作り、足並みを揃えながら、集団で一つのレシピエントに対応することも珍しくありません。例えば、海底油田の発見とともに世界中から投資とともに援助が集まるモザンビークの場合、14の先進国と15の国際機関が「援助協調」を行っています。この状況が、モザンビーク政府にとって、自らの意思に沿った開発が制限されると映ることは、想像に難くありません。西側ドナーの結束が強まるなか、レシピエント政府が例えインフラ整備や経済成長を優先させたかったとしても、先進国のトレンドである貧困削減を呑まざるを得ない状況になったことは不思議ではありません。

先述のように、民主主義や人権保護などが正しいことであったとしても、それが外部から、しかも援助を盾に求められれば、レシピエント政府からみればそれは「外圧」となります。同じことは、「貧困削減」に関してもいえます。「個々人の可能性の幅を広げられることが正しい社会のあり方」だとしても、それはレシピエント政府にとって、自らで方針を決めることへの制約という側面があったことは確かです。それに加えて、セクター・プログラムの普及は実際の「外圧」の舞台となりました。これらに鑑みれば、レシピエント政府が先進国主導の「貧困削減」やMDGsに不満をもったことは、不思議ではありません。

南北間の力関係の変化

ただし、注意すべきは、以上に述べたことはあくまで「レシピエント政府」の観点であって、政府の意向と多くの人々の希望が必ずしも一致しないことは、先進国と開発途上国、民主的国家と非民主的国家を問わず、珍しくありません。「貧困削減」は、いわば一般の人々を直接的なターゲットにするものでした。したがって、教育や医療の普及が少なからず貧困層の利益になったことは確かです。

しかし、先述のように、為政者の観点からみれば、インフラ整備も欠かせません。それは国家としての長期的な発展という意味からだけでなく、自らの支持基盤に対する支持確保の手段という意味でもあります。つまり、多くの開発途上国政府がセクター・プログラムに否定的な背景には、プログラム援助の減少が為政者にとって「臨時収入」のチャンスが減ることもあるのです。さらに、貧困層への直接的な支援の為に、国際NGOなどが先進国の支援を受けて活動することは、レシピエント政府にとって「資金の争奪」が激化したことをも意味しました。つまり、レシピエント政府が経済成長やインフラ整備を優先させたいことは、必ずしもその国の一般の人々のニーズと合致しているとは限りません。

いずれにせよ、少なくない開発途上国政府が「貧困削減」やMDGsを積極的に支持するわけでないにせよ、西側先進国の他に有力なドナーがなく、自らの経済力にも不安があった間は、これを否定することもできませんでした。しかし、2000年代に入り、多くの開発途上国が「新興国」として著しい経済成長を実現するなかで、その状況に変化が生まれました。2008年の世界金融危機に、G7だけではもはや対応できず、主要先進国に加えて新興国を含むG20の存在感が高まったことに象徴されるように、南北間の力関係は、先進国が圧倒的に優位に立っていた1990年代から変化しつつあります。さらに、中ロとの対立が明確になるにつれ、冷戦時代と同様、西側先進国政府は開発途上国政府との友好関係を維持する必要性にも迫られています。このような環境の変化は、開発途上国政府が先進国政府に対して声をあげやすい条件をもたらしたといえます。

先述のように、MDGsと比較して、今回採択されたSDGsはより幅広い領域を網羅していますが、なかでもMDGsでほとんど触れられていなかったインフラ整備と経済成長が強調されている点は、目を引きます。これまで述べてきたように、これらは開発途上国政府から要望がありながらも、西側ドナーは開発協力において大きな関心をもたなかった領域です。SDGsの策定には、先進国政府や国際NGOなど幅広い主体が関与しており、なにも開発途上国政府の意思だけが反映されたものではありません。ただし、開発途上国政府がMDGsで制約されていたこれらの要素をSDGsに盛り込むように強調しやすい国際環境が生まれていたこともまた確かです。

基礎的社会サービスを重視するMDGsや貧困削減は、「個々人が可能性の幅を広げやすくする」ことを重視した、規範的、倫理的なものでした。しかし、SDGsの文章のなかで、規範的、倫理的な色彩の濃い「貧困削減」の用語がほとんど使われず、「貧困撲滅」に置き換えられています。そこでは、規範性がゼロになったわけではないものの、経済成長というより実利的な要素の比重が増したことは確かです。すなわち、西側先進国と開発途上国の、それぞれの方針を盛り込んだことが、よく言えば包括的な、悪く言えば総花的なSDGsの設定につながったといえます。そして、この変化は、開発途上国の先進国に対する発言力が高まってきた、一つの時代の画期を象徴するといえるでしょう。

国際政治学者

博士(国際関係)。横浜市立大学、明治学院大学、拓殖大学などで教鞭をとる。アフリカをメインフィールドに、国際情勢を幅広く調査・研究中。最新刊に『終わりなき戦争紛争の100年史』(さくら舎)。その他、『21世紀の中東・アフリカ世界』(芦書房)、『世界の独裁者』(幻冬社)、『イスラム 敵の論理 味方の理由』(さくら舎)、『日本の「水」が危ない』(ベストセラーズ)など。

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