『週刊文春』の「元少年A」直撃に本人が「命がけで来てんだろうな」と応えたことの意味
スクープ連発で部数を伸ばしている『週刊文春』には最近敬意を表しているのだが、2月25日号(2月17日発売)の記事「元少年Aを直撃」については、疑問も含めていろいろ考えさせられる。
『週刊文春』のその記事は、神戸連続児童殺傷事件の元少年Aを直撃して、目伏せをした顔写真を公開したものだ。元少年Aの近影が公開されるのはこれが初めてだ。
元少年Aについては、昨年、『女性セブン』も直撃を行っているが、相手が否定しているから、それが本当に元少年Aなのかどうか曖昧だった。しかし今回の記事は、昨年の『絶歌』発売前後から250日にわたって彼を追跡してきたという経緯が詳細に書かれており、印象としては本物と考えてよいだろう。
記事によると、元少年Aは昨年9月末までは神奈川県のアパートに住んでいたが、突如そこをバッグひとつで慌てて退去。ウイークリーマンションで数週間過ごした後、12月に都内のアパートに入居した。ここを1月26日に『週刊文春』が直撃したのだが、そこも数日後に退去したという。マスコミの動きを含め周囲に何か気配を感じるとすぐに転居するということを繰り返しているらしい。
『週刊文春』は取材に応じてほしいという手紙を渡すために記者が直撃したようなのだが、相手は自分が元少年Aであることを否定。さらに記者が食い下がると、乗っていた自転車を地面に叩きつけて、こう言ったという。
「命がけで来てんだろ、なあ。命がけで来てんだよな、お前。そうだろ!」
自身がマスコミ報道によって身の危険にさらされるのだからお前も命がけで来てるんだろうな、と記者に詰め寄ったというのだ。これはなかなか象徴的だ。今回の『週刊文春』の記事を読んで思うのは、直撃して顔写真を載せるという行為をするにあたっての報道機関としての大義名分は果たして何なのだろうか、ということだ。それなしに、ただ犯罪を犯した人間を追い回しているだけでは、単なる「報道の暴力」だからだ。
いまの元少年Aというのは、少年法の精神によって更生を図るというのは具体的にどういうことなのか、身をもって示している実例だ。神戸児童殺傷事件について知っている者は誰だって被害者に同情し、犯人に怒りを覚えている。それにもかかわらず刑罰を科さず、元少年が更生することを保証するという試みが少年法で、それは現実社会において果たして有効なのかどうか。彼は刑事罰を免れる代わりに、その少年法の有効性を証明してみせる責任を負っている存在だ。
元少年Aが住居を転々として逃げ回るのは、へたをすると自分が集団リンチにさらされ、抹殺されかねないということを知っているからだろう。正直言うと、彼の怯え方はやや度を越しているようにも思えるのだが、そういう恐怖心を抱くのは決して杞憂ではない。一歩間違えればそうなる危険性はたぶんにあるといえよう。
そんなふうに元少年Aを社会がおいつめ、更生の機会を奪ってしまうのを少年法は戒めている。今回の『週刊文春』は敢えてその危険な領域にまで踏み込んでいるといるのだが、それゆえにこそ、それなりの「報道する理由」は必要だ。
今回の『週刊文春』の記事においては、そういう問題があることを自覚して、いろいろと「なぜ報道するか」を説明しているのだが、それがどの程度説得力を持っているかについては、若干の懸念は感じざるをえない。たぶん同誌としては、今回、満を持して対象に直撃を行ったのだから、その当面の成果だけでも誌面化したいと思ったのだろう。
正月以来、連続してスクープを放っている『週刊文春』の進撃ぶりには敬意を表したいが、たぶんいつまでそれを続けられるのか、若干のプレッシャーを編集部は感じていることだろう。そこから、多少無理をしてでも話題性のある記事をという心理状態に陥ることは避けなければならない。
報道機関は、その報道が本当に重要だと思ったら、相手が傷つくのを知っていても敢えて記事にするという覚悟が必要だ。しかし、そのためには、いったい何を何のために報道するのかという自問は重要だ。
元少年Aは出版の話を持ち掛けた幻冬舎の見城徹社長への手紙の中で、本を出すひとつの理由を〈精神をトップギアに入れ、命を加速させ、脇目もふらずに死に物狂いで「一番肝心な」三十代を疾走してやろうと決めたのです〉と書いていた。
ただ現実には『絶歌』出版もさることながら、ブログの公開内容などを見ていると、『週刊文春』が今回書いているように、周囲に相談する人もおらず「糸の切れた凧」状態にあるように見える。死に物狂いで疾走していったいどこへ向かおうとしているのか確かに気になるのだが、だからといって放置すると危険だから追い詰めろという理屈が妥当性を持つとは思えない。
今回の『週刊文春』がひとつの問題提起を行ったという意図は認めたい。ただ元少年Aの「命がけで来てんだろうな」という問いに、今回の報道が応えることができているのかどうか。同誌編集部には自問してほしいし、我々も考えてみるべきだと思う。