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根拠はあるのか!器量が良かったと伝わった3人の戦国女性

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
お姫様。(提供:イメージマート)

 大河ドラマ「どうする家康」では、美しい女優が戦国の女性を演じ、眩いばかりである。今回は、器量が良かったとされる戦国の三人の女性を紹介することにしよう。

1.お市の方(1547~1583)

 お市の方は、織田信秀の娘で信長の妹でもある。お市の方は、浅井長政と結婚したが、浅井氏は信長によって滅ぼされた。信長の死後、柴田勝家と再婚したが、羽柴秀吉に攻められて、夫とともに自害して果てた。お市の方の美しい容貌は、浅井長政夫人像(高野山持明院所蔵)で伝わっている。

 『溪心院文』には、37歳だったお市の方が、22~23歳の若さに見えたと記す。美魔女である。「天下一の美女」と記しているのは、『祖父物語』である。いずれも二次史料の記述なので、鵜呑みにするわけにはいかないだろうが、美人として伝わったのは事実である。

2.細川ガラシャ(1563~1600)

 細川ガラシャは明智光秀の娘として誕生し、細川忠興と結婚した。しかし、光秀が本能寺の変で織田信長を討ったので、謀反人の娘として肩身の狭い思いをしていた。一説によると、信長がガラシャの美貌を称えたというが、それ以外にガラシャが美人だったと記したものは目に入らなかった。

 ガラシャはキリスト教を信仰し、棄教を迫られても譲らない芯の強さがあった。関ヶ原合戦直前、ガラシャは西軍に攻められたが、信仰により自害できなかったので、家臣に槍を突かせて絶命した。その最期は、キリシタンに絶賛された。そのような美談が相まって、ガラシャは何となく美女だといわれるようになったのか。

3.松の丸(?~1634)

 松の丸は、京極高吉の娘として誕生した。最初、若狭守護の武田元明の妻となり、2男1女をもうけた。本能寺の変後、元明が羽柴秀吉に討たれたので、松の丸は秀吉の側室となった。松の丸は美女だったといわれているが、その根拠は実に乏しい。

 誓願寺が所蔵する松の丸像は、出家後の姿なので、その美貌は非常にわかりづらい。秀吉が松の丸を寵愛し、どこに行くにも同行を求めたというが、それでは美女の根拠にはなりづらいだろう。いささか根拠がわかりづらいが、かならず戦国美女の1人に数えられる女性である。

 当時は今のように写真や映像がなかったので、彼女らが美女であるか否かを確認するのは不可能である。加えて、美女か否かというのは、あくまで主観の問題である。どこかの時点で、彼女たちは美女と認識され、そのまま伝わった可能性もある。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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