今後、松本人志さんの問題はどう進むのか。そして、筆者が覚える“松本人志だからこそ”の危機感
週刊文春が松本人志さんの初報を出してから3週間近くが経ちました。
裁判に注力するために松本さんが仕事を休む。かつてレギュラー出演していたフジテレビ「ワイドナショー」には結局出演しない。
松本さん本人の動きが止まっているので「今、何がどうなっていて、今後どうなるのか?」。そんな疑問が膨らんでいるようにも感じます。
次の動きは何なのか。現時点で松本さんが見すえているのは裁判。複数の関係者に尋ねても同じ答えが返ってきています。
休業が発表された時に出した拙連載でも綴っていますが、以前から松本さんは「ワイドナショー」でも“キリトリ記事禁止”という手書きの札を出していたように、取材がなされないまま作られる、松本さんからすると“いい加減な記事”に対して憤りを持っていた。
芸人さんらしくシャレっぽさを出しつつ話してはいるが、心底ゆゆしき問題だと考えていた。いつかそういうものと正面から向き合わないといけない。そんな中、自らに文春報道があったことで、前々から考えていたことを具現化するなら今回だという考えに至った。自分が仕事を休んででも取り組む。この話はそれくらい看過できないことなんだ。そういうメッセージも込めて休んだとも聞きます。
松本さんが考えている次の場は裁判であり、だからこそ、裁判が始まるまでテレビ出演や記者会見などで自らの思いや状況を話すことはしない。その全てを出すのは裁判であり、それまでに出してしまったら裁判をやる意味も、休む意味もなくなってしまう。
これが僕が取材して分かった現状です。
一方、14日放送の読売テレビ・中京テレビ「上沼・高田のクギズケ!」で上沼恵美子さんが「裁判なんてしなくてもいいと私は思う」と重ねておっしゃっていたように、松本さんの周りでもいろいろなことを感じる人も当然います。
上沼さんの言葉のように、今の松本さんの気持ちとは違う内容であったとしても、そこに何かしら松本さんの心を動かす要素があったならば、それによって気持ちが変わるかもしれない。そこは人間である以上、当たり前のことです。
そして、そんな流れで気になるのが、松本人志さんという存在の大きさです。
僕が取材する中で、多くの芸人さんがあこがれの対象として松本さんの名前を挙げます。松本さん、もしくは「ダウンタウン」という存在があったから芸人になった。そう話す芸人さんは非常に多い。
だからこそ、これも現状として、一人のタレントを超えたプロデューサー、権威、クリエイターとしての松本人志が存在しているのだとも思います。
仕事のジャッジは天才・松本人志に任せる。天才・松本人志の才覚に則るのが最善策。これが事実だとも思いますが、今、松本さんが踏み出した道はプロとして歩んできたお笑いの道ではなく、トラブル解決の道です。
そこに裁判という選択肢も入ってくるのでしょうし、各所との協議や折衝も入ってくると思われます。
その道では門外漢である松本さんに対して、周りがこれまでの慣性で「松本さんみたいな大きな存在にはモノを『言えない』」「松本さんみたいな天才には自分が何を言っても意味をなさないので『言わない』」。この「言えない」と「言わない」が何かの形で作用する。
「ワイドナショー」に出演する、しないの流れ。SNSでの松本さんの発信。そういった目に見える事象と、芸人さんを25年取材する中でいつの間にかそうなっていた自分の嗅覚。そこを照らし合わせると、何とも言えないニオイを感じるのも事実です。
無論、僕は松本人志さんの敵でも味方でもありません。ただ、長くこんな仕事をやっている者として、取材したこと、経験則から感じること。その中で綴るべきことを綴っているのみです。
こんな当たり前のことをわざわざ綴っておいたほうが良いくらい、この問題が不要な分断を生んでいることも、ゆゆしきことだと強く思います。