伝教大師最澄1200年遠忌の比叡山延暦寺へ ~東塔・西塔エリアを巡る~
夏の京都は厳しい暑さのため、案内する場所が限られる。その中で毎年定番でご案内しているのが比叡山延暦寺。確実に5度は気温が下がって涼しさを実感できるからだ。今年は伝教大師最澄の1200年遠忌ということで、例年以上にたくさん案内してきた。
個人でいくなら、京都の八瀬からケーブル、ロープウェイ、バス(徒歩)、もしくは滋賀の坂本からケーブル、徒歩が一般的。ただ一番楽に行くとしたら、路線バスの利用が便利だ。京阪電車の出町柳駅前からだと、45分で延暦寺(東塔エリア)バス駐車場に着くことができる。
延暦寺は、延暦7(788)年、最澄によって、現在の根本中堂の位置に小規模な寺院が建立され、一乗止観院と名付けられたことに始まる。平安京遷都を行った桓武天皇の信頼を得て、京都の鬼門(北東)を護る国家鎮護の道場として次第に栄えるようになる。
最澄は還学生(げんがくしょう)として、唐に渡航することが認められ、延暦23(805)年、遣唐使船で唐に渡り、天台教学を中心に密教や禅を学んで帰国。そのため延暦寺は総合大学としての性格を持ち、のちに浄土教や禅宗の宗祖を輩出することとなった。
最澄が亡くなった直後に念願であった大乗戒壇設立の許可がおり、円仁、円珍、良源らの名僧を輩出することで大きく発展する。中世以降は、強大になって武装化したため時の権力者としばしば対立し、戦国時代には織田信長による比叡山焼き討ちで全山が焼失した。その後は、豊臣秀吉や徳川家康、家光によって再建され、現在に至っている。
受付を済ませると、東塔エリアでまずお参りできるのは大講堂だ。昭和39年に坂本から移築されたもので、中には比叡山ゆかりの名僧たちも祀られている。
そこから下っていくと、現在修復中の根本中堂が現れる。完成予定は2026年というからまだ先の話。しかし内部参拝は可能で、今だけの特典として修復現場を間近で見学することができる。また木村英輝氏がこのために描き下ろした大作も、今だけ見ることができる必見の作品だ。
そこから大講堂まで引き返し、真っすぐ進むと右手に現れるのが戒壇院。最澄が晩年切に願ったのがこの戒壇院の設立で、死後7日目にその許可がおり、これによって比叡山は日本仏教の母山と呼ばれる繁栄の礎を築くことができた。
さらに階段を上がると、東塔エリアで最も高い場所に、阿弥陀堂と法華総持院東塔が建つ。阿弥陀堂は、先祖回向の場として昭和12年に建立され、法華総持院東塔は、かつて最澄が日本の六ケ所に宝塔を建てようとした故事にちなんで昭和55年に再興された。
この場所を抜けていくと、西塔エリアへの山道となる。早速出てくるのが弁慶水だ。源義経の片腕として活躍した武蔵坊弁慶が修行をしていたことを示すものである。
奥比叡ドライブウェイをまたぐ橋を渡ると、山王院堂と呼ばれ、かつて5代目の座主である円珍の住居跡が現れる。ここから寺門派と呼ばれる円珍の弟子達が山を降りていき、三井寺を創建することとなった。
ここから最澄が眠っている御廟への参道となる。最澄の墓は浄土院と呼ばれており、現在も侍真(じしん)と呼ばれる修行僧が日々掃除を行い、静謐で清浄な空間を保っている。さらに最澄へ毎日食事を届け続けているのだ。
いよいよ西塔エリアの中心へ。手前までの少し下ったところに椿堂という建物が見えてくる。こちらは聖徳太子が訪れ、椿の杖を挿したところ、根を下ろし、一面に椿が広がったと伝わり、名前の由来となっている。
近くは浄土真宗を開いた親鸞聖人や、天台宗の真盛派を開いた真盛上人が修行をした場所でもある。
西塔のメインはにない堂と釈迦堂だ。最初に見えてくるのはにない堂。並び建つ常行堂・法華堂は2つの堂の間に渡り廊下があることから「にない棒」を連想させ、合わせて「にない堂」と呼ばれている。ここでは、「常行三昧行」が行われており、堂内を南無阿弥陀仏の仏名を唱え念じながら90日間歩き続けるという。
にない堂をくぐって、階段を降りると到着する釈迦堂は、豊臣秀吉の命によって三井寺の金堂を移築したもので、山内最古の木造建築となっており、本尊釈迦如来立像とともに重要文化財に指定されている。
西塔エリアは、東塔とちがってぐっと修行の色合いが強くなり、古くからの比叡山を感じられる場所と言える。ぜひとも東塔だけでなく西塔にも足を延ばしてほしい。山内はシャトルバスが巡回しているので事前に時間を調べておくと効率よく回ることができる。今回のコースは半日で十分回ることができるが、1日かけるなら北へ4キロほど離れた横川エリアもめぐると三塔すべて巡拝したことになるので、余裕のある方にはぜひおすすめしたい。