遂に枯れてしまった松、信玄公旗掛松裁判
公害は高度経済成長時代に問題になっており、数々の訴訟が起きたことさえあります。
そんな公害訴訟ですが、戦前にも似たようなことはありました。
この記事では戦前にあった公害訴訟、信玄公旗掛松事件について紹介していきます。
次第に弱っていく信玄公旗掛松、遂に…
信玄公旗掛松は、清水倫茂の懸念通り、中央本線の工事が進む中で大きな影響を受けました。
蒸気機関車の運行が開始されると、その枝葉が列車の通行を妨げるようになり、鉄道院からの補償として20円を受け取った清水は、やむを得ず松の枝を伐採することに同意しました。
1904年に韮崎駅と富士見駅間が開通し、日野春駅が設置されると、松はさらに過酷な環境にさらされます。
駅が開業し、人々の暮らしが便利になる一方で、松は機関車の熱や煤煙、振動にさらされ続け、次第に衰弱していきました。
1911年には待避線が敷設され、松とレールの距離はわずか1.8メートルに縮まり、松にとってはますます過酷な状況となります。
同年9月には貨物列車の脱線事故が発生し、機関車が松に激突、大枝が数本折れるという痛ましい出来事が起きました。
この事故によるダメージは大きく、清水は鉄道院から15円の慰謝料を受け取りますが、老松はすでに煤煙や蒸気で弱りきっていたのです。
清水は、これ以上の被害を防ぐため、同年11月に「ガス防除設備」の設置を鉄道院総裁の原敬に求める上申書を提出します。
清水の訴えは、これまでのような出張所長宛ではなく、組織のトップである総裁に直接宛てられたもので、松の保護を強く懇願する内容でした。
彼は、老松が枯死の危機に瀕していることを実地で確認し、早急な対策を講じてほしいと切実に訴えましたが、その願いが叶うことはありませんでした。
最終的に、信玄公旗掛松は日野春駅の開業から10年後の1914年12月に枯死します。
清水倫茂が長年守り続けてきた名木が失われたことに、彼の失望は計り知れないものでした。
翌年、1915年12月10日付の『甲斐新聞』は「名木の枯死」と題し、清水の奮闘とその経緯を報じています。
鉄道院の賠償拒否により、法廷闘争へ
1916年4月15日、清水倫茂は鉄道院総裁の添田壽一に対し、「松樹枯死ニ付賠償請求書」を提出し、2,000円の賠償金と1,000円の慰謝料、合計3,000円を求めました。
この請求の根拠は、松の枝が損傷した際に支払われた賠償金額に基づき、松の価値を見積もったものです。
清水は鉄道院に対し、松を守るための措置を求めていましたが、その要求は採用されず、松は枯死しました。
これに対して鉄道院からは6月20日付で「非常に気の毒だが、請求には応じられない」との拒否回答が届きます。
この対応により、清水は「信玄公旗掛松事件」と呼ばれる歴史的訴訟へと進むことになりました。