他人の目を気にし過ぎる人は、「他人の人生」を生きているようなもの
他人の目が気になる、自分がどう見られているか気になる、という人がいます。他人の目をまったく気にしないのも問題でしょうが、過剰に気にし過ぎるのはツラい。たとえば、今日着ているシャツは普段着ている6000円のじゃなくて、奮発して3万円も出して買ったヤツなんだけどみんな気付いているかな?とか。フェイスブックにアップした子どもとの写真は、決して献身的なママを演じようとしているわけじゃなくて、仕事も子育ても両立している自分へのご褒美のつもりで、朝早く起きて自分でお着替えができるようになった子とついつい記念撮影したくなったから撮影しただけなんだけど、やっぱりフェイスブックに載せるべきではなかったかな?とか。ただでさえ他人の目が気になるのに、そういう人がフェイスブックやツイッターをはじめると、よけいに他者の視線に対してセンシティブになることでしょう。
● 他者から良く見られたい
● 他者から悪く見られなくない
この2つの感情がないまぜになって、自分を苦しめます。
現時点の自分の仕事ぶり、感情の持ち方、身なり、言動や状態など、すべてにおいて正しいのか正しくないのか、周囲から異端と見られていないかイチイチ確認したくなります。しかし確認しようにも、確認しようとする行為そのものが印象を悪くする可能性があると思い込んでいるため、かなりツラい毎日を送ることになるでしょう。
自分のことだけでなく、他人に対しても、その人を客観視して、いろいろと気遣いしてしまいます。
「あの人は、他人から変な風に見られているかもしれない。残念だ。何とかしてやりたい。言ってあげたほうがいいのかな。でも言うと私が変な人だと思われないかな」
などと。
他人の目を気にし過ぎているということは、認知バイアスにかかりやすくなっているということです。目の前で起こっている事実を正しくとらえられず、ネガティブな記憶や体験ばかりを引き出しては「反すう」する癖がついてしまっている。論理的思考能力が減退し、記憶の引き出し方にも問題が発生しやすくなる。そのため、言わなくてもいいことを口にしてしまうこともあります。
他人の目や評価を気にし過ぎている人は「他人の人生を生きているようなもの」です。
他人が想像していること、受け止めた感じ方を、当人が考え、想像するのです。よくよく考えればわかるとおり、同等に等しくなる可能性は低いと言えるでしょう。つまり、他人が自分をどう見ているかなど、正しく推し量ろうとすること自体、一定量の限界があるということです。
NLP(神経言語プログラミング)でとても有名な言葉があります。それは「起きている出来事はすべて無色透明」という言葉です。あの人はこう思っているに違いない。この人はこんな風に受け止めたに違いない……などと、自分の勝手な「色合い」を着けるのではなく、すべて「無色透明」と捉えるのです。何の色にも染まっていない。無色透明だ。変なフィルターを通して私を見ることない、と考えましょう。そうして自分の状態管理(ステイトコントロール)を正しくしていくのです。
最後に、他人の目を気にし過ぎる人は、間違ってもSNSなどにのめり込まないほうがよいでしょう。自分が投稿した記事に「いいね!」がどれぐらいされたのか。心ないコメントを寄せられたらどうレスポンスをしたほうがいいのか。リツイートの数が少なかったのはどうしてだろうか。今日の記事は変な投稿だっただろうか、閲覧している人の気分を悪くさせたであろうか……などと不必要な思考ノイズで自分を苦しめることになります。SNSとは、ほどほどの距離をとったほうがよいですね。