家康の関東入りで生まれた名字由来の地名、青山と内藤新宿
北条氏が滅んで徳川家康が関東に入ると、江戸は急ピッチで発展した。
もともとそれ程多くの人が住んでいるわけではなかった江戸周辺では地名の数も少なく、町が発展するとともに新たな地名が次々と生まれていった。通常は地名が先でそれに因んで名字が生まれることが多いが、もともと地名の少ない所に多くの武士達が移り住んだ江戸では、名字に因む地名も多数誕生している。
青山の由来
今ではおしゃれな街として知られる青山は、後に美濃郡上藩主となった青山家に因んでいる。
徳川家康の家臣だった青山忠成が鷹狩りの供をした際、家康から「見えるかぎりの土地を与える」といわれた。そこで、忠成は馬を走らせ、赤坂から渋谷に至る土地を拝領したという。そのため、この地一帯は青山と呼ばれるようになった。
新宿の内藤家
新宿にも似たような話がある。新宿駅から東側にかけての地域はかつて内藤新宿といった。この内藤とは、信濃高遠藩主の内藤家のことである。
内藤清成も家康の鷹狩りの供をした際に、馬が一息で駆けた土地を与えよう、といわれた。清成は馬に乗ると、南は千駄ヶ谷、北は大久保、西は代々木、東は四谷という広い地域を駆け抜け、約束通りこの広大な土地を拝領した。青山も新宿も400年前は二束三文の原野だったのだ。
ちなみに、内藤清成の馬は駆け抜けた直後に死去したため樫の木の下に埋められた。新宿御苑の東側にある多武峯内藤神社の境内には、この馬を供養した駿馬塚が残っている。
江戸時代初期、甲州街道の最初の宿場は高井戸であった。しかし、日本橋から高井戸の間は4里(約16km)もあり不便だったため、元禄年間に内藤家下屋敷の北側に新しい宿場が誕生した。そこで、「内藤家の前にできた新しい宿場」ということで、この宿場は内藤新宿といわれるようになり、やがて、「内藤」がはずれて新宿となった。
なお、新宿御苑は内藤家の屋敷跡で、多武峯内藤神社のある場所は今でも内藤町という地名である。