世間に大きな反響を及ぼした ドナー隊の悲劇
19世紀、アメリカでは新たなる土地を求めて多くの開拓民が西部へ入植していきました。
しかし中には目的地に辿り着くことができず、命を落とすことになった開拓民も決して少なくなかったのです。
この記事ではカリフォルニアを目指して西部へと進んでいったドナー隊の軌跡について取り上げていきます。
事件の反響
ドナー隊の悲劇は、末日聖徒イエス・キリスト教会の役員でジャーナリストでもあったサミュエル・ブラナンによって東部に伝えられました。
1847年7月、ニューヨーク市に初めてこのニュースが届き、扇情的な報道が広がる中、一部の新聞はドナー隊を英雄視し、カリフォルニアを楽園として描いたのです。
西部への移民は一時的に減少しましたが、それは米墨戦争の影響が大きく、ドナー隊の事件そのものが原因ではありませんでした。
その後、1849年のゴールドラッシュによって移民は激増し、25万人が西部に移住しました。
ドナー隊が辿ったルートを取る移民も少数いましたが、大半はカーソン川沿いを進んでいったのです。
スティーブン・W・カーニー将軍の指揮下にあったモルモン大隊は、ドナー隊の遺体を埋葬し、小屋の一部を焼却しました。
一方、1891年には湖の近くで現金が発見され、これは第2次救助隊とともに出発したグレイブス夫人が隠したものでした。
また、ドナー隊を誤ったルートへ導いたランスフォード・ヘイスティングズは、その後何度も死の脅迫を受けることとなったのです。
ドナー隊メンバーの死因
ドナー隊は87名で構成されていたとされていますが、一部の研究者はサラ・キースやネイティブ・アメリカンのガイドも含めて90名とする説もあります。
彼らの過酷な旅路では、結核や外傷、過酷な条件によって5名がトラッキー湖に到達する前に命を落とし、さらに34名が厳しい冬の間に亡くなりました。
ドナー隊の生死を分けた要因について、多くの歴史家が研究を重ねてきました。
その結果、年齢、性別、そして家族との同行が生存に大きな影響を与えたことが明らかになったのです。
若者や女性、特に家族と一緒にいた者は生存率が高かったです。
女性は男性よりも体脂肪を蓄えやすく、また必要なカロリー摂取量も少ないため、飢餓や過労に対してより強い耐性を示しました。
一方、20歳から39歳の男性は高い死亡率を記録し、彼らの多くはトラッキー湖到達以前の重労働や危険な作業により、体力が著しく低下していたことが原因と考えられます。
また、家族と共に旅をした者は、食料を分け合うことで生存の可能性を高めたとされているのです。