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【光る君へ】藤原道長の室となった源明子は、なぜ藤原一族を恨んでいたのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
藤原道長。(提供:イメージマート)

 今回の大河ドラマ「光る君へ」では、ついに藤原道長と「まひろ(紫式部)」の恋愛が成就しなかった。道長は「まひろ(紫式部)」ではなく、源倫子(源雅信の娘)を正室に選んだのである。

 一方、道長は源明子(源高明の娘)を室に迎えることになるが、明子は藤原一族を憎んでいた。その理由を考えてみよう。

 ドラマの中では、道長と「まひろ(紫式部)」の恋愛が見どころではあるが、これが史実と認められるのかについては不明である。道長が倫子に婿入りしたのは、永延元年(987)のことである。

 2人の間に誕生したのが彰子であり、教通である。以後、藤原氏が摂関政治を通して、黄金時代を築いたのは周知のとおりである。他方で、道長は明子も室として迎えていた。

 明子は、康保2年(965)に高明の娘として誕生した。しかし、後述する安和の変で高明は失脚し、変後は叔父の盛明親王の養女となった。道長が明子を室に迎えたのは、永延2年(988)のことである。

 ところが、一説によると、道長は倫子と結ばれる以前、すでに明子を室にしていたという。ただ、どちらにしても、倫子が正室だったのは疑いない。

 ドラマの中で、明子は道長との結婚の話を持ち出されると、進めてほしいと話していた。しかし、藤原一族への復讐の言葉を口にしていたが、それはどういう事情によるものなのだろうか。

 源高明(914~982)は、醍醐天皇の第10皇子として誕生した。延喜20年(920)、源姓を与えられた高明は、臣籍降下したのである。

 その後の出世は順調で、康保3年(966)には右大臣になり、翌年には左大臣へ昇進した。高明は朝廷の儀式書『西宮記』を著す知識人で、『源氏物語』の主人公・光源氏のモデルにもなった人物でもある。

 しかも、高明の妻は当時の実力者の藤原師輔(兼家の父)の娘であり、その姉の安子は村上天皇の中宮になった。村上天皇は高明の義弟になったので、高明は中宮大夫を務め、天皇に急接近したのである。

 さらに、高明は娘を為平親王(村上天皇の第二皇子)に入れ、将来に備えて布石を打った。もし、為平親王が次の天皇になれば、高明は大きな権力を手にすることができた。

 ところが、師輔と安子が相次いで亡くなるという不運に見舞われ、為平親王の弟の守平親王が新しい天皇(円融天皇)になった。それでもなお、高明は為平親王の擁立を諦めず、これが謀反と捉えられ、大宰権帥に左遷されたのである(安和の変)。

 安和の変は、藤原氏による有力な一族の排斥事件といわれている。明子は安和の変で父が左遷されたので、藤原一族に恨みを抱いていたのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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