関白になった豊臣秀吉が出自を隠すべく、捏造した驚くべき誕生譚とは
前々回の「どうする家康」では、豊臣秀吉が関白に就任する場面があった。秀吉の出自については諸説あるが、農民の子だったという説が有力である。しかし、秀吉は己の貧しい出自を隠すべく、自ら捏造した誕生譚があるので紹介しておこう。
天正13年(1585)、秀吉は五摂家以外で初めて関白になった。しかし、よく知られているように、秀吉は武士の子ではなく、貧しい農民の子だった。周囲の人々もその事実を知っていた。
しかし、それでは具合が悪いので、秀吉は自らの出自を捏造することにした。それが天皇のご落胤という説だから驚きである。
秀吉が出自を捏造する際、協力を命じたのが大村由己であり、執筆されたのが『関白任官記』である。由己は天正8年(1580)頃から秀吉の御伽衆を務め、秀吉の軍功を記した『天正記』などを著した。ときには、それを自ら語って聞かせることもあったという。
その点を考慮すると、『関白任官記』は秀吉の意向に即して執筆された史料ということができるだろう。次に、その関係部分を記すことにしよう。
その(秀吉の)素性を尋ねてみると。祖父母は朝廷に仕えていたという。仕えていたのは萩の中納言という。
今の大政所(秀吉の母)が3歳のとき、ある人の讒言によって遠流になり、尾張国飛保村雲というところで日々を過ごした(中略、ある都人から大政所に歌が贈られる)。
かの中納言の歌である。大政所殿は幼年にして上洛し、朝廷に3年にわたって仕え、程なく一子が誕生した。それが今の殿下(秀吉)である。
この記述によると、秀吉の祖父母は萩の中納言なる人物に仕えていたことになっている。秀吉の母は3歳のときに尾張国に流されたが、萩の中納言に呼び戻された。その後、落胤として誕生したのが秀吉なのである。つまり、素直に考えると、秀吉は正親町天皇の子ということになる。
いうまでもないが、萩の中納言なる人物は史料で確認できず、非情に荒唐無稽な内容となっている。秀吉は由己に命じて、自らの出自を皇胤に結び付けようとし、創作させたのだろう。
秀吉は関白に就任したので、さすがに農民の子では具合が悪かった。とはいえ、当時の人々が本当に秀吉が天皇のご落胤と信じたのかは、まったく別の問題である。
現実の問題としては、秀吉が農民の子であることは多くの人が知っていていた。秀吉自身ですら、毛利氏に仕える安国寺恵瓊に貧しかった少年時代の話を語っていた。
そうした話は、薩摩の島津氏やポルトガルの宣教師のフロイスでさえも知っていた。それでも秀吉は、貧しかった過去を隠したかったのである。
主要参考文献
渡邊大門『清須会議 秀吉天下取りのスイッチはいつ入ったのか?』(朝日新書、2020年)