クリスマスに馳せる、アフリカ・ルワンダの豆腐屋とジェノサイドへの思い
クリスマスを迎えると、毎年思い出してしまう光景があります。
それは1995年、アフリカ中部の国「ルワンダ」のニャルブエ教会で見た、数千の死体です。
1994年に発生したルワンダのジェノサイドでは、国全体で80~100万人が殺害されました。首都キガリから南東に140キロメートル、隣国タンザニアの国境にほど近いキブンゴ県(現:東部県キレヘ郡)にあるニャルブエ教会でも、約2万人が犠牲になりました。
私が取材に行ったのは1995年末。すでに惨劇から1年以上経過していましたが、教会内は礼拝堂以外、ジェノサイドが行われた当時の状態のままでした。
ルワンダは国土の大半が標高約1500メートルにあるため、断末魔の形相を残したままミイラ化した死体もあり、当時20代半ばだった私は、目の前の惨状に大きな衝撃を受けました。
アフリカで一番安全な国、ルワンダ
「初めてアフリカに行くなら、どの国がおすすめですか?」
その質問には、ルワンダを第一候補に挙げています。
なぜなら、訪問したことがあるアフリカ諸国の中で、最もリスクが少ないと感じているためです。
しかしほぼ毎回、「ルワンダって、あのジェノサイドがあった国ですよね?危なくないんですか?」との反応が返ってきます。
ジェノサイドから24年が過ぎた現在のルワンダは、毎年8%近い経済成長率を誇り、「アフリカの奇跡」と呼ばれるほどの驚異的な復興と発展を遂げています。
急ピッチで開発が進む首都キガリには、高層ビルはもちろんのこと、オシャレなカフェやレストランが建ち並び、日本と比較しても遜色がないほど清潔に保たれた町中は、セルフィーに励む若者たちと、歩きスマホをする人であふれています。
外国人をターゲットにした犯罪発生率が低く(※1)、さらに最も性質(たち)が悪い「権力を悪用する警官や軍人」が皆無に近いため、アフリカへの第一歩として非常におすすめしやすいのです。
その評価はアフリカ内でも高まっているようで、友人のウガンダ人男性曰く、「キガリで交通違反をして車を止められた時、私がウガンダ人だと分かっても賄賂を要求するでもなく、嫌がらせをするわけでもなく、淡々と職務に励む姿に感動した」とのこと。
またソマリアでも「いま一番魅力的で結婚したいアフリカンはルワンダ人。だって、みんな立ち居振る舞いがスマートなんだもん」と、ソマリー女性の間でルワンダ人男性が大人気でした。
狂気の残り香
1994年に起きたルワンダ・ジェノサイドの原因や経過については、映画「ホテルルワンダ」を始め様々な媒体で取り上げられているため端的に記すと、「本来は争う必要がなかった人々が『民族』という名のタグで分類され、国内外の様々な政治的対立・思惑が作り出した大きな波に飲み込まれ、『個』ではなく『集』として殺し殺された悲劇」です。
そして教会は、効率よく人を殺すための場所として利用されました。虐殺者と内通し、庇護を求めて集まった人々を裏切った司祭が多数いたのです。(※2)
ニャルブエ教会の取材中、ボディーガードとしてルワンダ軍兵士が二人同行してくれていたのですが、その内の一人はニャルブエが故郷だったらしく、身内全員が教会内で殺されてしまったということでした。
「ムズング(外国人)(※3)、そんなことも分からないのか?『教会にさえ逃げ込めば助かる』、みんなそう信じていたんだよ。それが殺人鬼どもの罠ともしらずに。神なんかクソっ食らえだ!」。
「なぜ、教会でこんなことが……」と問いかけた私に、彼は怒鳴るように答えたものの、その目は泣いているように見えて、思わず目をそらしてしまいました。
その兵士だけではなく、人々の間には深い悲しみと怨嗟の声があふれ、取材らしい取材が初めてだった私は、一度の取材でとても目の前の現実を消化しきれませんでした。
そのため、翌年もその翌年もルワンダを訪問しましたが、取材をすればするほど、ジェノサイドという狂気がもたらした傷跡の闇は深く、いったい何を取材すればよいのか、そもそも私はなんのためにルワンダに行くのか、年々分からなくなりました。
そんな時、ある一人の少女との出会いが、私を袋小路から救い出してくれました。
少女の名前はコロンベ。乳飲み子の時に母に捨てられた戦災孤児でした。
ジェノサイドが行われていた時だけではなく戦後数年にわたり、ルワンダでは女性への性的暴行が多発しました。
国際連合によると10~25万がその被害を受けたといわれています。その結果、HIV/エイズ感染者が増え、さらに堕胎が許されていないカトリック教徒が多かったため、1997年には14万人もの孤児が生まれてしまったのです。(※4)
コロンベもその中の一人でした。
憎しみの連鎖を断ち切る光
「今にも消えてしまいそうな弱々しい声で泣いていたから、たまらず抱き上げるとピタッと泣きやんで、私に笑いかけてくれたの。その笑顔を見て私は彼女を引き取ろうと決めたのよ」
数枚の新聞紙に包まれて孤児院の前に捨てられていたコロンベの運命を変えたのは、当時首都キガリの中心部で「TOFU」という名の豆腐屋のオーナーをしていたマドレーヌ(当時33歳)でした。
1994年に留学先のカナダで豆腐に出会ったマドレーヌは、その栄養価の高さに加え製造過程で生まれる「おから」・「豆乳」も有効活用できる事に注目し、内戦終結直後に帰国するとフランスのNGOと共にルワンダ産大豆から豆腐を作り、食料不足に苦しむ人々への食料配給を行った女性でした。
当時ルワンダに住んでいた日本人にルワンダ人が経営する豆腐屋があると聞いた私は、ルワンダで明るい話題を取材できると思い、早速翌日にTOFU屋を訪問することにしました。
マドレーヌはサービス精神あふれる人で、一通り取材が進むと「良い写真が撮れるわよ」と、店舗から車で10分ほどの離れた製造工場に連れていってくれました。
そこで出会ったのが当時2歳だったコロンベでした。
その瞳にピントを合わせた瞬間、コロンベが見せてくれた無垢な笑顔は、ルワンダで初めて本当に笑う人間を写した一枚になりました。
そしてその瞬間、「この子の成長を通して、ルワンダという国を追い続けていこう」と、頭に浮かんだのです。
以来、ほぼ毎年ルワンダを訪問し、コロンベの成長を記録させてもらうことにしました。
残念ながら紆余曲折があり2000年にTOFU屋は人手に渡ることになり、マドレーヌはイタリアに出稼ぎに、コロンベは従業員の女性に引き取られることになりました。女性の家庭は決して裕福ではありませんでしたが、彼女の実の子たちと同じようにコロンベも愛情を受けて成長し、小学校高学年でフランス語を覚え、10代半ばで英語も話せるようになりました。そして今は、経済学を学ぶ大学生です。
マドレーヌは、ルワンダの平和な未来を願い現地の言葉で「平和の鳩」を意味する「コロンベ」と名付けたそうです。
誰からも祝福されず生を受けた天涯孤独な少女が、自分に注がれた愛情を次の世代に繋げることができたなら――。
悲しみの連鎖を一つ、人々の愛と優しさで断ち切れることになります。
今日はクリスマス。ルワンダの教会には、ミサに参列するため多くの人々が集まることでしょう。
最近、常にスマホを手放さず、時間があればゲームをしたりYouTubeを見たりと、どこにでもいる普通の大学生の一人になったコロンベも、家族と一緒に教会に行くそうです。
「大好きな夫の横で、愛する我が子を優しく抱く笑顔のコロンベ」。
近い将来、その一枚をファインダーに収められる日が来ることを、心から楽しみにしています。
(※1)外務省「海外安全ホームページ」ルワンダ
(※2)2017年3月、第266代ローマ法王フランシスコは司祭と尼僧の関与を認め、ルワンダ大統領カガメ氏に許しを請うた
(※3)本来はスワヒリ語で「白人」を意味する言葉。現在は「外国人」全般をさす言葉として東アフリカで広く使われている