新入生で賑わう大学キャンパス、郊外に増加する背景に「多摩ニュータウンの教訓」
4月1日から入社式とともに、各大学の入学式も始まった。初々しい大学生の姿を目にした人も多いだろう。
大学キャンパスが都心から郊外に広まったことで、近年は郊外で新大学生の姿を見かけることが多くなった。4年制大学で、最初の2年は郊外のキャンパスで、都心の本拠地は後半の2年というパターンもあるし、最初から最後まで郊外のキャンパスというパターンも。いずれにせよ、大学で郊外キャンパスが増えているのは間違いない。
都心に本拠地を構える大学が郊外に新キャンパスを開校するのは、平成時代の特徴的な現象だった。
平成に入って増え始めた郊外キャンパス
青山学院大学が厚木キャンパスを開いたのは、昭和の終わりだった。同キャンパスは、あまりに交通が不便だったためか平成15年に閉鎖。相模原に移転し、郊外キャンパスとして存続している。
その後、早稲田の所沢キャンパスや立教の新座キャンパス、東京大学の柏キャンパスなど、郊外のキャンパスは次々に増えていった。
なぜ、そんなに郊外キャンパスが増えたのか。都心のキャンパスが手狭になったことが第一の理由だが、もうひとつ郊外都市が大学キャンパスの誘致に積極的という事情もある。その背後に、「多摩ニュータウンの教訓」があったことをご存じだろうか。
郊外キャンパスを増やした「多摩ニュータウンの教訓」
「多摩ニュータウン」には、15年前くらいからゴーストタウンとか高齢者タウンの別名が生まれてしまった。初期は子どもが多く、今は、親たちが高齢化し、老人だらけの街になっている、という意味だ。
これは、同じような年代の人を一挙に呼び入れ、画一的な住宅街をつくった結果だった。この失敗は住宅・都市整備公団(現・UR都市機構)にいくつもの教訓を残した。
住宅だけをつくると、駅周辺の飲食店が寂れる、というのも多摩ニュータウンの失敗から得られた大きな教訓。街の人口は多くなるのだが、飲食店が賑わうのは休日だけ。平日は、外食をする人がめっきり減るので、飲食店には閑古鳥が鳴く。休日だけの売り上げではやって行けないので、次々に店を閉める。それが、商店街全体の活気をなくし、街の魅力も下げた。これは、ゴーストタウンという呼び名が生まれる前、昭和の後期から問題になっていた。
そこで、公団が次に開発した港北ニュータウンと千葉ニュータウンでは、改良が施された。「平日の昼間も活動する人が多い街をつくろう」としたのだ。具体的には、企業の研究所や学校を誘致し、平日の昼間も飲食店や商店を利用する人が多い街とした。
ここでいう「学校」は、当初私立の中・高校や短大だったりしたが、その後、4年制大学のキャンパスが、より好ましいとなった。
4年制であれば、20歳以上の学生が含まれるので、飲食店では酒類の売り上げが増える。大学周辺で一人暮らしする学生も出てくるので、街に落ちるお金は大幅に増える。郊外キャンパスは、街を活性化させる起爆剤となるため、各自治体が積極的に誘致を行い、現在のように郊外大学キャンパスが増える状況が生まれたわけだ。
多摩ニュータウンも首都大学東京で変貌
ちなみに、「ゴーストタウン」の別名が付けられた多摩ニュータウンにも大学キャンパスが開校している。平成に入ってから都立大学が多摩ニュータウン内の南大沢に移転。平成17年には複数の学校を統合して首都大学東京となっている。
京王相模原線南大沢駅には、この首都大学東京と「三井アウトレットパーク多摩南大沢」があり、平日も人の動きが絶えない。この活気は、2駅隣の京王(小田急)多摩センター駅周辺にも及んでいる。
つまり、ゴーストタウンと呼ばれ始めたころから、多摩ニュータウンでは大学キャンパス誘致の効果が現れはじめていたのだ。現在、ゴーストタンの先入観を持って南大沢駅や多摩センター駅に降り立った人は、その賑わいに面食らうはずだ。
大学キャンパスは、とてつもない力で街を変えてしまうのである。