【土浦市】ハッケン!まち歩き水郷都市・川口川の面影を辿るその2~公園ビルの下を流れる水面の見えない川
土浦城址(亀城公園)を後にして大通りへ。河岸だった地を歩きます。まずは城址を出て川の面影をたどっていきます。
堀の上に築かれた「公園ビル」
土浦城址(亀城公園)を出て土浦駅方面に向かうと食堂「亀屋」の看板が目に留まります。
「この食堂が入っている建物はお堀の上に建てられたもので「公園ビル(マーケット)」と呼ばれているんですよ」と、建物を指さしながらそう話すのは土浦市立博物館の学芸員・木塚久仁子さん。川口川の面影をたどるまち歩きの案内人です。
建物の下には、お堀に溜まった雨水などが今もゆるやかに流れているそうです。
土浦の古絵図と照らし合わせてみると車が往来する道路も元々は水路で、霞ヶ浦に向かって水が流れています。上の写真で水色が敷かれた部分は川口川だったと思われる場所。川口川歩きは上を向いて歩こうならぬ、下を向いて歩いてみると、現在は暗渠化された地中を流れている水の上に立っていることを、川の流れのようにくねった道から実感できます。
桜橋のあった場所は「船の駅」の終点だった
中城通りの入口にある趣ある家屋は、明治2年創業の「保立食堂」。有名な老舗の天ぷら店です。
「保立食堂」の建物のたもとに「櫻橋」と刻まれた石碑があります。
木塚さん「この場所は陸の交通の水戸街道と水の交通の川口川が交差する地だったんです。川をまたいで水戸街道を行き来するための橋が『桜橋』。石碑はその証しです」
川口川の当初の名称は桜川。「桜川の上に架かる橋だから桜橋」なのだと木塚さんは教えてくれました。
木塚さん「江戸時代より前、桜川はまちの中を通っていました。まちの中に大きな川が流れていると洪水の危険性が高まります。江戸時代初期、本流を現在の桜川につけかえ、まちの中にも流れを残して水運の利便性を保ったのが川口川です」
昭和初期、川口川の暗渠化に伴ってレンガ造りの桜橋も地下に埋まっているといいます。
中城通りと本町通りを結ぶ信号を渡るたびに「ここが桜橋だったのか」と思いを馳せることになりそうです。
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