【ハッケン!土浦まち歩き】城下町・東崎周辺その1~今は道路、昔は水路。「日本のベネチア」の風景を歩く
2022年6月より、土浦市内にある通りや町を土浦市立博物館の学芸員さんとともに訪れて、その地の魅力や歴史を探っていく連載をスタートしました。第二回目の地として訪れたのは「東崎分(とうざきぶん)」と呼ばれた城下町東側の地域。散歩のお題である「『日本のベネチア』の風景を歩く」の謎に迫ります。
中城分と東崎分をつないでいた「桜橋の跡」
東崎分周辺の謎解きのナビゲーターは、土浦市立博物館の学芸員・萩谷良太さん。待ち合わせの場所は、中城通りの入口にある「天ぷら ほたて」。そのたもとに東崎周辺歩きのひとつめのカギがあると言います。
それが萩谷さんが指さしているこの碑、「桜橋」の欄干の一部です。
「天ぷら ほたて」の方が提供してくださった写真をもとに図解した「うんちく板」がすぐ近くにあるのですが、この写真は今から約100年前の1924年(大正13年)に撮影したもの。中央に川が流れ、その両岸に町が発展しているのが分かります。
「今、私たちがいるのがこのあたりなんですよ」と萩谷さん。指さすその場所は1869年(明治2年)創業の「天ぷら ほたて」の端の方。その前には橋が架かっています。
橋の架かっていた場所がこの交差点。中城通りからこの道路を渡って東崎分の入口となる本町通りへ。
中城通りから見た本町通りの眺めはきっとこんな感じ。
写真を見ると、土浦駅方面から亀城公園方面へと向かう大きな通りには川が流れていて、そこに桜橋がかかっていたようです。
橋の下には多くの舟が行き交い、その様子はまさに「水の道」。大げさな表現かもしれませんが、運河の多いイタリアのベネチアの街並みを彷彿とさせます。
萩谷さん:土浦の町中に川が流れていて、舟を使って物を運ぶ商いがさかんでした。舟で霞ヶ浦を進むと利根川、江戸川を経て江戸、現在の東京湾に到着します。舟から人や荷物を上げ下ろしする河岸として栄えたのがこの桜橋の東側です。徳川8代将軍であった吉宗公の時代に、桜橋の下流に町(川口川)が形成されていきます。
中城側から東崎側へ大通りを渡ったところに「桜橋の跡」の標柱があり、その隣には桜橋の歩みを解説した案内板もあります。
それによると桜橋は、1604年(慶長9年)に幕府の直轄工事で作られたものだそう。川は昭和初期に地下水路となって、地上はアスファルトの道路に。交差点の下には煉瓦造りの桜橋が埋まっているそうです。
交通の要は、舟から車へ移り変わりましたが、今も昔も変わらずに人々の営みに根付いています。
次回はいよいよ「東崎分」へ。東崎というと現在の「東崎町」を思い浮かべますが、城下町として栄えていた江戸時代は、土浦城下の北東側一帯を東崎と呼んでいました。東崎分の中で最も桜橋に近い本町、七軒町の町のハッケンスポットをご紹介します。