樋口尚文の千夜千本 第177夜 【追悼】千葉真一、肉体を映画に捧げし作品至上主義者
千葉真一は「肉体」を超えて「映画史」を創った
最近は千葉真一のアクションを大スクリーンで拝む機会も滅多にないが、たまさか逝去の直前に国立映画アーカイブの追悼特集で1978年の東映作品『宇宙からのメッセージ』の千葉の雄姿をほれぼれと仰いでいた。いかにもかつての東映らしい『スター・ウォーズ』便乗SF企画で、千葉は平和な星をどんどん侵攻している凶悪な宇宙帝国を追われた善良なる王子の役で、彼を追放した成田三樹夫の暴君と対決する。このふたりは同じ深作欣二監督の直前の時代劇『柳生一族の陰謀』でも当たり役の柳生十兵衛と剣の達人の公家に扮して剣を交えていた。千葉と成田三樹夫はちょっと似たところがあって、とにかく自分が出張っていくことよりも先にまず作品になじみ、作品を面白くしようという、実に機嫌よき工夫と勢いが伝わってくるのだった。
この少し前にもたまさか東映が催している創立70周年記念の回顧上映で、こちらは何と大スクリーンで一切動きを封じられた千葉を観た。佐藤純彌監督の傑作『新幹線大爆破』で演じたのは爆弾を仕掛けられてストップできなくなった新幹線の運転手の役で、当然ながら全篇運転席に縛り付けられている以上、その体勢のまま派手な動きなしにサスペンスを盛り上げなくてはならない。だが、華麗なアクションはおろかちょっとした動きさえままならないモードで、千葉は運転手の緊迫と焦燥を渾身で演じて鮮やかだった。こうした静と動の千葉の魅力を味わいながら、やはりこのきっぷのいいテンション高き演技はスクリーンに映えることを再確認したところだった。
だが、わが国のファンが千葉に親しんだのはほとんど銀幕ではなく、テレビを通してのことだろう。1959年に東映に入社したスタア候補生の千葉は、戦後の日本映画の興行的な絶頂期に映画界に入ったものの、そこから業界は雪崩のように興行不振で凋落してゆく。千葉は活劇やサスペンス、ミステリー、SFなどさまざまなジャンルで活躍したが、それらはほとんどが即製のプログラム・ピクチャーで観客も減っており、千葉はスクリーンよりも当時高度成長の途上にあった新興のテレビで華々しい活躍を見せ、ひときわ人気をつかんだのが東映=TBSの連続ドラマ『キイハンター』だった。
そんなテレビのアクション・スタアという印象が強かった千葉が銀幕で異彩を放ったのは、意外や70年代に入ってからのことで、そのきっかけとなったのが1973年の深作欣二監督『仁義なき戦い 広島死闘篇』で演じたクレージーなやくざ・大友勝利だろう(これに先立つ69年の中島貞夫監督『日本暗殺秘録』や76年の『沖縄やくざ戦争』も印象深い)。これらは60年代を通して反復されてきた二枚目の正義の味方という役柄のマンネリを打破するものだった。一方で1974年以降の『殺人拳』シリーズ、『地獄拳』シリーズでの主演は千葉を徹底したアクション俳優として再認識させた。
こういった70年代に出演した東映作品は(話題沸騰だった『仁義なき戦い』の続篇は例外として)折からのカンフー映画ブームに便乗して即製されたものゆえ、どこかチープなキワモノ臭が漂い、国内では安手のプログラム・ピクチャーという認識を出るものではなかったはずだ。ところが面白いことに、これらの便乗カンフー映画での千葉のアクションは、「本家」ブルース・リーに勝るとも劣らぬオリジナリティが買われて、欧米では大変な人気となった。特に『ストリート・ファイター』という海外向けタイトルを冠した74年の『激突!殺人拳』は熱狂的なファンを獲得し、海外の名だたる映画人から東映に"Sonny Chiba"への出演オファーが舞い込んだ。
そして70年代後半から80年代いっぱいにかけて、千葉は映画の主演スタアでありながらアクション監督を買って出る。79年の『戦国自衛隊』、80年の『忍者武芸帖 百地三太夫』、81年の『吼えろ鉄拳』、89年の『将軍家光の乱心 激突』での千葉は主宰するJAC=ジャパンアクションクラブの門下生たちを活かしてアイディア満載のアクションシーンを創造した。こうしたあり方が端的に示すように、千葉真一という映画スタアはただ自らを押し出す一般の俳優とは異なって、引き受けた映画の世界を自らの肉体をもっていかに盛り上げるか、アクションを通していかに映画を豊饒なものにできるか、ということに野心を傾け続けた才能だった。
そういった志向ゆえに、映画を盛り上げる同志としての門下生を育て、志穂美悦子や真田広之を筆頭とするアクション・スタアを輩出し、またその映画に向き合う姿勢のあり方においてクエンティン・タランティーノやキアヌ・リーブスといった映画人たちに深い影響を与えた。まさにその肉体はナルシスティックなものではなく、映画に捧げられたものであり、こうした千葉の「作品至上主義」が国内外の後続の映画人たちを育てたのだった。
タランティーノが2003年の監督作『キル・ビル』に千葉本人を招聘する10年前、脚本作の『トゥルー・ロマンス』がくだんの『ストリート・ファイター(激突!殺人拳)』の千葉の雄姿を映すスクリーンから始まった時には快哉を叫んだ。それのみならずその映画を劇場で観ている若い主人公の家には千葉が主演した『カミカゼ野郎 真昼の決斗』と『東京-ソウル-バンコック 実録麻薬地帯』のポスターが貼ってあるという筋金入りのファンぶりであった。ビデオショップの店員としてこうした映画のビデオを幾度も観て千葉にあこがれたことが、タランティーノという個性を培った。
千葉のフィルモグラフィを俯瞰すると、みごとに即製の娯楽作、それもキワモノ的なものがわんさとひしめいていて、いわゆる映画史的な大傑作というのはほぼ見当たらない。しかし、そういったあまたの娯楽作に身を捧げた千葉の「作品至上主義」は、なんとブルース・リー本人やジャッキー・チェンにも影響を与え、タランティーノら国際的な異才を生んだことで、もはや千葉真一という肉体の限りを超えたのであった。